風は
いつぺんに十人の女に恋することが出来る

男はとても風にはかなはない

夕方――
やはらかいショールに埋づめた彼女の頬を風がなでてゐた
そして 生垣の路を彼女はつつましく歩いていつた

そして 又
路を曲ると風が何か彼女にささやいた
ああ 俺はそこに彼女のにつこり微笑したのを見たのだ

風は
彼女の化粧するまを白粉をこぼしたり
耳に垂れたほつれ毛をくはへたりする

風は
彼女の手袋の織目から美しい手をのぞきこんだりする
そして 風は
私の書斎の窓をたたいて笑つたりするのです


ある男の日記

妻をめとればおとなしくなる――

私は きげんのよい蝿にとりまかれて
昼飯の最中です


昼 床にゐる

今日は少し熱があります
ちよつと風邪きみなのでせう

明るい二階に
昼すぎまで寝て居りました

少女の頬のぬくみは
この床のぬくみに似てゐるのかしら
私は やはらかいぬくみの中に体をよこたへて
魚のよ[#「よ」に「ママ」注記]うに夢を見てゐました

「化粧には松の花粉がよい
百合の花のをしべ[#「をしべ」に傍点]を少し唇にぬつてごらんなさい」 と

そして
私はちかく坐る少女を夢みてぼんやりしてゐる
ぬるい昼の部屋は窓から明りをすすつて
私のかるい頭痛は静かに額に手をのせる


無題詩

夜になると訪ねてくるものがある

気づいて見ると
なるほど毎夜訪ねてくる変ん[#「ん」に「ママ」の注記]なものがある

それは ごく細い髪の毛か
さもなければ遠くの方で土を堀り[#「堀」に「ママ」注記]かへす指だ

さびしいのだ
さびしいから訪ねて来るのだ

訪ねて来てもそのまま消えてしまつて
いつも私の部屋にゐる私一人だ


四月の原に私は来てゐる

過去は首のない立像だ

或る年
ていねいに
恋は 青草ののびた土手に埋められた

それからは
毎年そこへ萠へ[#「へ」に「ママ」注記]出づる毒草があるのです

青い四月の空の下に
南風がそこの土手を通るときゆらゆらゆれながら
人を喰ふやうな形をして咲いてゐる花がそれなのです




三十になれば――
そんなことを思ひつづけて暮らしてしまつた
一日

ずつと年下の弟にわけもなくうらぎられて
あとは 口ひとつきかずに白靴を赤く染めかへるのに半日もかかつて
何を考へるではなしいつしんに靴をみがいてゐたんだ

そして夜は雨降りだ


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