てしまつたりするので、困惑しきつて何かしきりにひとりごとを言つてみたりしてゐたのだつた。
水鼻がたれ少し風邪きみだといふことはさして大事ないが、何か約束があつて生れて、是非といふことで三十一にもなつてゐるのなら、たとへそれが来年か明後年かのことに就いてゞあつても、机の上の時計位ひ[#「ひ」に「ママ」の注記]はわざわざネジを巻くまでもなく私が止れといふまでは動いてゐてもよいではないのか。人間の発明などといふものは全くかうした不備な、ほんと[#「と」に「ママ」の注記]うはあまり人間とかゝはりのないものなのだらう。――だが、今日も何時ものやうに俺がゐてもゐなくとも何のかはりない、自分にも自分が不用な日であつた。私はつまらなくなつてゐた。気がつくと、私は尾形といふ印を両方の掌に押してゐた。ちり紙を舌[#「舌」に「ママ」の注記]めてこすると、そこは赤くなつた。
第一課 貧乏
太陽は斜に、桐の木の枝のところにそこらをぼやかして光つてゐた。檜葉の陽かげに羽虫が飛んで晴れた空には雲一つない。見てゐれば、どうして空が青いのかも不思議なことになつた。縁側に出て何をするのだつたか、縁側に出てみると忘れてゐた。そして、私は二時間も縁側に干した蒲団の上にそのまゝ寝そべつてゐたのだ。
私が寝そべつてゐる間に隣家に四人も人が訪づ[#「づ」に「ママ」の注記]ねて来た。何か土産物をもらつて礼を言ふのも聞えた。私は空の高さが立樹や家屋とはくらべものにならないのを知つてゐたのに、風の大部分が何もない空を吹き過ぎるのを見て何かひどく驚いたやうであつた。
雀がたいへん得意になつて鳴いてゐる。どこかで遠くの方で※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]も鳴いてゐる。誰がきめたのか、二月は二十八日きりなのを思ひ出してお[#「お」に「ママ」の注記]可笑しくなつた。
へんな季節
次の日は雨。その次の日は雪。その次の日右の眼ぶたにものもらひが出来た。
午後、部屋の中で銭が紛失した、そして、雨まじりの雪になつて二月の晦日が暮れた。
少しでも払ら[#「ら」に「ママ」の注記]はふ[#「ふ」に「ママ」の注記]と思つてゐた肉屋と酒屋はへんに黙つて帰つて行つた。
私は坐つてゐれないのでしばらく立つてゐた。ないものはないのであつた。盗つたことも失くなつたことも、つまりは時間的なことでしかないやうだ。
天井に雨漏りがしかけてきて、雨がやんだ。
次の日いくぶん眼ぶたの腫がひいてゐた。
朝のうちに陽が一寸出てすぐ曇つた。
庭の椿が咲きかけてゐた。
湯屋へ行くと、自分と似たやうな頭をした男が先に来て入つてゐるのだつた。昼の風呂は湯の音がするだけで、いつかうに湯げが立たない。そしてつゝぬけに明るい。誰かゞ入つて行つたまゝの乾いた桶やところどころしかぬれてゐないたゝきが、その男とたつた二人だけなので私の歩くのにじやまになつて困つた。私よりも若いのに白く太つてゐるので、湯ぶねを出ると桃色に赤くなつたりするのだつた。
湯屋を出ると、いつものやうに私のわきを自転車が通つた。
縁側に出て頸にはみ出してゐる髪をつんでゐると、友達が訪づ[#「づ」に「ママ」の注記]ねて来た。そして、金のない話から何か発明する話になんかなつた。
友達が帰ると、又友達がやつて来た。十二時過ぎて何日目かで風呂に入るつもりで出かけて来たのが遅くなつたと言つて、帰りに手拭と石鹸をふところから出して見せた。
あくびが出て、糊でねばしたやうに頭の後の方が一日中なんとなく痛かつた。一日が、ながい一時間であつたやうな日であつた。
どしや降りになる雨を床の中で聞いてゐると、小学校にゐた頃の雨の日の控室や、ひとかたまりになつて押されて二階から馳け降りる階段の跫音が浮かんだ。寝てゐる足が重く、いくども寝がへりをして眠つた。
風が吹いて、波頭が白くくづれてゐる海に、黒い服などを着た人達が乗つてゐるのに少しも吃水のない、片側にだけ自転車用車輪をつけてゐる船が、いそがしく砂地になつてゐる波打際へ着いたり沖の方へ出て行つたりしてゐるのを見てゐると、水平線の黒い雲がひどい勢ひでおほひ[#「ひ」に「ママ」の注記]かぶさつてくるのであつた。私はその入江になつた海岸の土堤で、誰か四五人女の人なども一緒に蒲団をかぶつて風を避けてゐた。そしてしばらくして、暗かつた蒲団の中から顔を出すと、もうそこには海も船もなくなつてゐて、土堤にそつて一列に蒲団が列らんでゐるのであつた。
明け方、小い[#「い」に「ママ」の注記]さな地震が通つて行つた。
雨はまだ朝まで降りつゞけてゐた。桜草の鉢をゆうべ庭へ出し忘れてゐた。
朝の郵便は家賃のさひ[#「ひ」に「ママ」の注記]そくの葉書を投げこんで行つた。
もうひと頃ほど寒くはなくなつた。
前へ
次へ
全8ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾形 亀之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング