ゃせん!」昇三は口癖のやうにさう云った。
よその村には既に、何かあたらしい機運が動いてゐるやうだった。大抵の村に自由大学や公民講座がどしどし開かれてゐた。貧乏で辺鄙《へんぴ》なこの村へは、ろく[#「ろく」に丸傍点]に名士ひとりやって来なかった。小学校の先生も今ではどこでも全く無気力のやうで頼りにならなかった。もっともっと多くの事を知らねばならぬ願望が絶えず昇三達の頭から難れなかった。
この冬一度帰って来た日吉の清司の口から、都会地の方の生活や労働組合の内部の話などが興味深く語られた。清司は村に居る中から指導的立場にゐた青年だったが、旅へ出て行ってからは最左翼的色彩を一層濃厚にしてゐた。
「どうしたって、基礎的な組織を持たなくては駄目だ!」
清司はその事を幾度も云って行った。
昇三は製糸工場から帰ってくる妹達の口から、意外にしっかりした言葉を聞いて驚くことがあった。
昇三の妹の千穂は隣村の製糸工場朝日館で、模範の優等工女だった。
「なんで修養会なんかに執心しとったんだか自分の気が知れんと思ふの……」
千穂はある時さう云った。そして誰からか借りてくる、発禁になつた戦旗や綴込みにした無産新聞を、公休日に帰ると熱心に読みふけってゐた。若い娘達の近頃の進歩と変化にはおどろくものがあった。
昇三は何彼につけて、自分らが立ち遅れた者である事を感じさせられた。「なんとかしなければならない」焦燥にいつも駆られた。そして直接ぶっつかって行くべき何物をも掴む事の出来ぬ立場が歯がゆく物足りなかった。
「昇三、うちでも早く嫁をもらはにゃならん…。千穂らもいつ迄もああやっちゃ置けんし、手が足りんでなんとかせにゃあ……」
母親のおすみはそんな風に切りだした。
「こんな貧乏の中へもらっても仕様ない……。俺ァ三十になるまぢぁもらはんぜ!」
昇三は素っ気なく答へた。
「三十になるまでもらはんわけにも行かんが?」
勝太はポッツリと口を挟んだ。
昇三達の間では娘の噂もしてゐられぬといふ風だった。
八
八月になってから急に蒸々と気温が昇って、雨気づいた日が続いた。何処の家の蚕にも白彊病《かつご》が出始めた。拾っても拾っても後から後から白くなって死んで行った。ひどいところでは一晩のうちにぞっくりと白く硬化した。役場で配った薬を蚕の上に振りかけて消毒して見ても、なんの効果もなかった。土間に白く山盛に放り出した死蚕を眺めて人々は張合のない顔を合せてゐた。
天竜川には毎日河上の方で捨てる蚕が流れてくる噂だった。そして日日の新聞は日増に繭の値の下落を報じた。
「へえまあお蚕飼ひはつくづく厭ァになつた!」
女房達はさう云って顔色をわるくしてゐた。
志津の家でも食延《くひのび》となってからは一人では手が廻りかねた。志津は桑畑と家との間を小走りに駆け廻らねばならなかった。やっと一回給桑を終へたかと思ふともう直ぐ次の桑に追はれ通した。蚕も狭い土蔵の中許りには置ききれなくなったので、廂に蓆を敷いて移した。そして棚を作って二段飼ひにした。朝日の射し込む方へは、久衛に土蔵横の樫の木の枝を伐らせて吊り、日蔭を作った。
今はどこでも簡単な屋外育が流行ってゐて、露天のテント張りの中で飼ふ家もあったので、志津も廂へ出して見たので、さうでもなければ、一度一度蚕沙を代へる手間はとてもなかった。志津は寝不足が続いてゐた。朝目を醒ますと、体がミシミシと病めてよろよろする程だった。
昨日から小止みなく雨が降りつづいてゐるので、ビショビショに濡れて摘んで来た桑を土間から炉端から家中にひろげて乾かさねばならなかった。そこらあたり濡れて足の踏場もないやうだった。飯櫃の中にまで蚕糞が落ち込んでふやけてゐた。志津は子供の口を飼ふ隙もない思ひをした。二人の子供は外へ出られないので、狭い家の内でてんでにつきまとった。殊にふさ子は発育が遅れて今漸くよちよち立ち始め危なくて目が離せなかった。
それに頭にいっぱい腫き物がしてゐて膿がヂグヂクでるので余計機嫌が悪かった。
「これは遺伝性の毒から来てゐるのだから早速癒りませんよ」さういつか医者に云はれた事があった。
志津は自分の体の上にも大きな故障のある事を疾《と》うから気付いてゐた。時々激しい眩暈を感じた。
やっと露の乾きはじめた桑を集めて、大急ぎで飼ひ出した。蚕は透き切ってゐる。さっきから清作は何か愚図愚図云ってゐる。志津は忙しいので、相手にもしないでゐると清作は次第に声を高めて行った。
「一銭、一銭お呉んなったら?」
「飼っちまったらやるで……」
「厭ァなあ、今でなけにゃ……」清作は泣声を上げたが、素知らぬ顔で飼ってゐる母親を見ると、喚いて急に勝手の障子をガタガタ揺すぶりはじめた。それが志津の苛々してゐる神経をかき廻し
前へ
次へ
全15ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
金田 千鶴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング