ァ今日は当家《ここ》の畑打ちだ!」
 聞かせるともなく独りごちし乍ら、留吉は裏口の方へ出て行った。
 酒が廻ると庄作は次第に上機嫌になって行った。隣村から三里の往復が酒手に代へられた。
「庄作さはあれで下駄穿きゃがるで油断ならんぞ!」
 庄作の駄賃に懸値のあることは誰も知ってゐたが、十銭二十銭の買物でも気前よく引き受けるので部落の者には重宝がられてゐた。
          二
 昨日から夏|挽《び》きが始まって、部落の娘達は殆ど他村の製糸工場へ出掛けて行った。俄に村の中がガランとしたやうだ。
「春|蚕《こ》上り」をめがけて毎日様々な借金取りが軒別に廻って歩いた。町の農工銀行の行員は香水をプンプンと匂はせ乍ら片端から退引ならぬ談判をして行った。村税の滞納で役場の人達が手分けで廻りあっちこっちに差押へが始まった。生産過剰で横浜の倉庫に二十萬梱のアメリカ行絹糸が欠伸をしてゐようと、飼へば飼ふ程益々自縄自縛の結果に落入らうとそれは別の問題である。繭の値が安いと云って今ここで蚕を止める訳には行かない。
「安けりゃ猶、沢山取らにゃ遣り切れん!」どこの家でもそれを云った。そして夏蚕の掃立をうんと増《ふ》やすことにした。
 一号を盆迄に上簇の予定である。桑の有る家では二号も始めるつもりだった。さうなると盆には忙しい真最中だ。人間の体の壊れる事などは構ってゐられぬ場合だった。
 夕方から留吉の家へ無尽の集りに人々が寄ったが又今度も立たぬ事に話し合ひがついて散った。もう後二回で満会になる掛金五十円の小口の講なのだがどうしても立たず秋迄延ばす事になった。これでこの部落の無尽は全部秋まで延期となって了った。
 二三人の居残りの者がその儘囲炉裡端に集った。いやに冷え冷えする晩だった。
「まづ毎日肴買はんか何にを買はんかって色々な奴が来やがるよ! 昨日来た菓子屋なんか四里から背負って来るんだでなあ!」
「うん、どこも不景気だでぢっとしてをれんのだな。負けとく負けとくっていふで、負けてお呉れでもいいが、ここぢゃァ何んにも買はんきめがあるでって、荷を下さん先におことわりだ!」
「いよいよなんにも買へん時節が来ちまったな。そいだがたまにゃァ鰯の一本も食ひたくなるしなあ……」
 炉端の四隅を陣取って胡座をかき乍ら話が始まってゐる。酒が出てから話が弾んで行った。勝太はふと気がついたやうに、
「小父《おい》様! 今日はなんだな」と新蔵に聞いた。
「俺ァ今日は松下の屋敷引きだ!」
「なんだ、何か建てるのか?」
「なあに、裏へ石垣取るってんで、あの厩を一寸ずらせるだけだ」
 留吉は飲み乾した盃を下に置いたが、
「だが松下もめきめきと身上|拵《こせ》えたなあ!」
 さう歎息するやうな口調で云った。
「田地は買込む、普請はする、お蚕は当てる、金は貸せる程有るんだで! 云はっとこねえさ……」
「日の出っちふもんさ! あそこらが――」
「仕事がどんどん廻るでなあ……。ああなりゃおんなじ仕事でも楽で面白く廻る!」
 新蔵が云った。
「さうだ。入る者と出る者ぢゃ大した相違さ! ちィっと利子でも負けて貰はっと思やあ、酒でも買って罐詰の一つもつけて持って行かんならんちふ訳だでな!」
 留吉は苦笑し乍らさう云った。
 そこでいつもの事だが工面の良い家の噂が始まった。
「まあ松下、それから吉本屋!」新蔵は順に数へるやうにした。「そこらのもんかな!」
「長沼あたりも借金もでかいらがもとから有る家だで、食ふ米にゃ困らんて!」
 さうつけ加へて云った。
 森田家を別にすれば、もとこの部落で僅か乍らも先祖伝来の田畑を耕して食ひ凌いで来た者はほんの三四軒の家だけだった。
 松下でも森田家が潰れた時、洞上田地を安く手に入れたのが運が好かったと話が出た。
 吉本屋も小金を要領よく利殖してめっきり大きくなってきた。金も一旦溜り出すと苦もなく働けてまた溜る。
「あそこでも今ぢゃ家内《うち》ぢうで米はとても食ひおほせんらよ?」
 勝太は口を挟んだが、
「あそこなんにも無しっちふやァふんと茶碗一つも無しとからはじめた身上だで!」
 さう感慨深さうに云った。此処でなんにもなしの境涯から田地の一枚も手に入れようと発心すればどれ程の働きをせねばならぬか――親に背いて夫婦になって飛び出してから、吉本屋も人の三倍四倍は事実働き抜いて来たのだ。――田の畦にどの子も寝かされて育って来たのだ。
「月給の入る衆は不景気知らずだ!。吉本屋も息子が取るで楽になる一方さ!」新蔵は一寸言葉を切ったが「だが人間もちィっと身上が出来ると強《きつ》くなるで怖っかねえ……」
 さう含んだもののある調子で云った。
「うん、あそこら今ぢゃ巾利だでな!」
 留古は大きく頷づいて見せた。
「中屋の後家も一時から見ると大分調子がいいやうぢゃねえか?」

前へ 次へ
全15ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
金田 千鶴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング