日夕日が土蔵の白壁を眩ゆく照り返した。
池には山水が溢れ大きな緋鯉が跳ねてゐた。
何も彼も有余る豊さで、恵まれて敬はれて人形のやうに大事に育てられてゐた。――
それはもう遠い遠い昔の夢の様な記憶の断片だった。何も彼も煙のやうに消えてなくなって了って、今目の前には荒れ果てた桑の畑が在るばかりだと云ふ確な事実をどうすることも出来ないのだった。
けれども志津は今その事を考へてはゐなかった。志津には何も考へられなかった。
どうしたらこの苦しい現在をくぐり抜けて行かれるかといふこと以外には――
その思ひでいつも頭が占領されてゐた。
志津は四五日前、この冬死んだ妹の嫁ぎ先へ漸くの思ひで米を借りに行って来た時の事を思ふと思はず冷汗が流れる様な気がした。それは二里程離れた笠見部落の矢張り同族の大屋だった。
妹の姑にあたる人が、玄米を一斗袋に入れ「お貸し申すのも何んだで、今度はまあ是だけお持ちておいでて……」
さう憫《あは》れむやうな調子で云って渡して呉れたのだった。妹が生きて居たとしても行きにくい家だった。向うにも妹の子供が二人遺されてゐたので、志津の子供を皆連れて後妻に来て欲しいと云ふ話しが一度起り掛けたが、それはとても不可能な事として断わって了ひその儘になってゐたのだった。
志津は草削の手を休めて眼に沁む汗を拭いた。
三代養子が続けば長者になると云ふ諺があるが森田家では四代も養子続きだった。
祖母のお安は勝気者だったが子供が無かったので隣村の大屋から姪を連れて来た。それが志津の母親である。おたけ様と呼ばれてゐたが、「たけぢゃない、たァけだ」と蔭では云ふ者があった。血縁が絶えると云ふ訳なので、お安も目をつぶってゐた。父の紋治は岡島部落の岡島家から来た。岡島家は古い伝統を持ってゐる由緒有る大屋で、紋治は酒を飲むときっとそれが出た。
「俺の生れた家は勿体なくも御観音様が建てて下された家だぞよ」と云ふのである。
絶えず妻を罵って二言目には「おん馬鹿さん!」と怒鳴った。
「そいでもおんの字とさんの字がつくだけいい!」
蔭ではさう云って笑った。耕地の者が「お早うございます」と挨拶すると、「ウム!」と鼻の先であしらふのが紋治の癖だった。正月には耕地の者は折畳んだ一固めののし餅を持って御年始に行く習慣だった。返礼には固い串柿半重がきまりだった。
志津の処へ天龍川向うの旧家から利国が養子に来た。華かな婚礼で耕地中の者が手伝ひに動員された。お庚申峠で歓声が上がって行列が部落の中へ入って来た。勝太も宇平も荷担ぎに加はってゐた。見物人の集った所へ来ると箪笥を担ぐ者らははやし立てて、故意に重さうに「重い重い」と云って蹌踉めいて見せた。
「何んだ! 石でも入ってゐるんか!」
義一の親爺はいきなりさう悪態ついた。その癖、今日の振舞酒を誰よりも当にしてゐたのだ。
「馬鹿云ふな! まあ一杯飲め……」酒樽と盃がつき出された。女や子供は先を争って御仲人の手からお菓子をねだった。花嫁の後からデップリした花聟が通った。
「今日はお志津まの雀斑《そばかす》も見えなんだなあ!」
見物人の中から誰かがさう云って笑はせた。
翌年の春、志津は男の子を産んだ。利国によって喜八郎と云ふ名前が命名された。
金以外に幸福を感じなかった利国は、今をときめく一代の大金持大倉喜八郎の名を蔭乍ら頂戴に及んだのである。利国はその事を得意顔に人に吹聴した。何代目かで初めて男の子が生れ森田の家の繁栄に祖母のお安は満足な顔をした。
浮気っぽい利国は直きに、大人しい許りで外から帰っても嬉しいやうな顔もして見せぬ志津に厭きはじめた。役場や吉野屋で過す時が多くなって行った。隣村から時々出張して来て吉野屋で店を開く呉服屋の佐々木は折々云った。
「森田の若旦那位果報な人はめったない。女にゃ好かれるし金はいくらでも持っとるし……」
そして煽てて茶屋女の物なぞを頻りに買はせることがうまかった。続いて次の男の子が生れた。今度は善次郎と付けた。安田善次郎の善次郎である。
繭の値が十円以上もしてゐて世間が好景気の真最中だった。森田部落でも田圃が惜気もなく潰されて桑畑に代った。吉野屋には茶屋女が二人も三人もぞろりとした風をしてゐた。
善次郎は生れつきがひよわくて、一年許り育った丈で死んで了った。利国は間もなく義妹の春に手をつけて妊娠させた。
その時はさすがのお安も顛倒した。ぢきに始末をつけることはつけたが、春はいつ迄も蒼い顔をしてゐた。
「春まはどこがおわるいの?」
志津と幼友達の峰のかのゑはわざわざ探りを入れて志津の顔色を読んで見た。志津は性来の寂しい目をしてゐた。
「お志津まも黙っとる人だが馬鹿ぢゃねえぞ!」そんな風に云ふ者もあった。
利国は町の方へ行ったきり帰らぬ日が多くなっ
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