引策に依って百姓達を鴨にする、近代には珍らしい(或は当局に何等かの了解を得てるのかとも邪推されるほどに)堂々たる賭場であった。村の銀三や源太等の常連のほか、慎作の村にも少なからず田村のお客がある様子だった。この附近には、十姉妹や万年青等の流行を先鞭的にきたすだけに、賭博等の悪習も封建時代から濃い筋を引いていた。田村の賭場は、玄関先でそっと面を見せれば、中ではお客に覆面さえ許した。面を包んだ客がさし向いに黙って賭に熱中し、無意識に覆面をとり、後ではッとして見交すと、それがお互に知人でお互によもや[#「よもや」に傍点]と思っていた人間であった……こんなエピソードまであった。養蚕期の直後等は定例の様に、源太や銀三が百円札の五六枚も見せびらかせつつ一種の勧請に歩いた。
「お前、ちょっと田村の近所までも、見に行ってくれへんかい」と、母にも悲しい確信があるらしかった。
「大丈夫そんな所へは行ってへんと思うが、よし今晩、どれだけ遅くなってもよくお父っつぁんに訊いて見るよ」
「そやかて、今晩も、もう九時過ぎやのにまだ帰ってきやへんし!」
 と、その時だった。表戸が突然細目に開いて、そこに覗う様な二つの眼が光って、声は表でした。
「エ、ヘヘヘヘ今晩は!」と、漸く戸を開けて入って来たのは、遊人風体の男だった。
「ヘヘヘどうも、こんなに遅くお邪魔して何とも申訳ありません。直造旦那のお宅はこちらで?」小腰をかがめ乍らその男は封書をさし出した。そこに、薄い墨で認《したた》めた下手な父の筆蹟があった。

[#ここから2字下げ]
くわしき[#「くわしき」に傍点]は帰りて申上候。この使の者に金三十円也お渡し下され度し、家には三十円無之と思うが、三十円のネブチ[#「ネブチ」に傍点]ある品物にてもお渡し下され度し。
爺殿にも慎作にも何卒ないしょ[#「ないしょ」に傍点]にお願申候、それからタンス[#「タンス」に傍点]の百五十円は無之候御すいりょ[#「すいりょ」に傍点]下されて何卒何卒宜敷願上候、お詫びは帰りて幾重にもいたす可候
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]直造
[#天から3字下げ]糸殿

 手紙を書いたこと等の殆んど無い父の、この拙い文章が、どんな悲痛な台詞《せりふ》にも増して胸にせまった。荒々しい風が直接身内へ流れこんで、ふっと音を立てて何もかも吹き消された様な気がした。この気配に折悪しく祖父が起き出てきた。
「何や、何や?」と祖父は、手紙をひったくるなり念仏の様に音読して「外道奴」と唾をとばし、再び音読して「情けないこっちゃ、この下手糞な字を見たれ!」と、泣声で呟やいた。
「へへへどうも……」他国者らしい男は懐から風呂敷を出して下品に笑い、袖口からのぞく入墨に似気ない猫撫声を出した。
「何しろ、このいたずら[#「いたずら」に傍点]って奴は『目』でしてね、へへへその運ですね、此方の旦那なんざあ、仲々どうして素人衆にしちゃ上手なもんですが、何分、今言った様な次第で、今夜はその目ってのが無く、それに、あせって追っかけなすったもんですから無理な借りまで背負いこんだ様な訳でして、この落目の時の追っかけってのはまた不思議と!」
「ええ、ゴタゴタ言わんといてくれッ」と祖父は男をグイと睨みつけて、母に怒鳴った。
「糸ッ、何を泣いてるのや、早《はよ》出してやらんかい。わい[#「わい」に傍点]の紋付も絹の外出着《よそゆき》も、皆包んでやれ、ほほたら、少しは性根にこたえるやろ」

 男が出て行くと、祖父は通りの悪い煙管を岬の様に唇を尖がらせて吹きまくり、泣く母をたしなめた。
「お糸、泣くなよ、泣いたかて如何なるこっちゃ、見っともない、泣きな、泣きな!」
 母は、塗りの褪せた箪笥に凭《もた》れかかり、空になった欝金《うこん》の財布を、ハンケチの様に目に当てて嗚咽《むせ》った。
 妹は影の様に裏口から出て行ったと思うと、すぐコソコソと戻ってきてカマド[#「カマド」に傍点]の蔭に蹲《うずくま》った。
「あんな人が丁半するなんて、蚕の金までとられてしもうて、ほんまに、肥代や今度の利息どうする気や、夜も寝やんと桑洗うた絹や、手伝うてくれた新宅の里代にも、まだ一枚の着物もこしらえてやらへんのに……。ほんまに、あの人、気でも違うたんや!」
「気も狂うやろかい、この旱りと繭の不作やないか、彼奴かて、そら苦労しとるんや、苦しまぎれに田村へなんか行く気になりよったんやわい。こんなんやったら十姉妹でも飼うといたら!」と祖父は、たるんだ瞼を釣りあげる様にして慎作を睨みつけた。
「鳥でも飼うといたらこんな事起らなかったンや、わい[#「わい」に傍点]がなんぼよぼよぼ[#「よぼよぼ」に傍点]でも、十姉妹の世話位出来たんや! みてみい、あれから鳥の相場、まるで鰻のぼりやないか、それにこれから南洋へまで送り出すって、新聞に書いたある。それやのに、この餓鬼が、屁理窟並べやがったさかいに……こら慎作、未練やないぞオ、お父っつぁんが、一人で苦労してばくち[#「ばくち」に傍点]みたいなものに手を出しよったのも、みんな、お前のせいやぞ」
 祖父は喋り乍ら、日頃からの不平不満に一時に火が付いた様に熱して行った。裄、丈、の短かい浴衣が、憤怒を嗤うように枯れた全身にまつわりついていた。
「さ、違うなら違うと言うてみい、こら、なんぜ黙ってくさる、返事せんかい、この罰あたりめ、この先、この一家はどうして暮らすのか言え。これでも貴様はまだ、十五円の月給仕事仕腐さる気か※[#感嘆符疑問符、1−8−78] 改心するなら両手をついてあやまれ。こ、こら、慎作、なんで寝転びやがる! この阿呆、年寄やと思うて馬鹿にする気か、こん畜生※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 堪え兼ねた様に祖父は立上ろうとしたが、利かない体は無闇な威勢を裏切って、つつかれた達磨の様に尻餅をついてしまった。

 その夜、父は帰らなかった。
 明け方、心配の余り、町の田村[#「田村」に傍点]まで迎いに行こうとした慎作は、裏の田で、軍鶏《しゃも》の様に眼を薄黒く窪ませた父が祈る様に瞼を閉じて、ギイギイ水車を踏んで居るのを見た。
 ふいと慎作を見付けた父は、危く足を踏みはずそうとしたが、やっと両肱で体を支え、それでも微笑もうとした。が、笑えなかった。どんな時にでも、看板の様に面から去ったことのない微笑が、今はもう拭きとった様に消え去ったのだ。慎作は、ただ泣き笑うより術はなかった。出来る事なら、愛撫を籠めた手で父の背を叩き、何んでもよい涙の出る様な慰めを何時までも言い続けたかったが!

 振りかかってくる火の粉の様な苦痛は、街と野にあふれた悲惨は、すべて皆、反抗の火を※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]《た》く燃料たるべきであった。だが、一家の悲惨はあまりに身近過ぎる様だった。それは余りに生々し過ぎる薪であった。理智が悩みを清算する前に感情は迷児の様に泣きわめいた。慎作は、この事実に全く打ひしがれた自己をはっきり知った。そうだ、慎作は、常夜燈の様に消えなかった胸の火を、忽然吹き消されたまま、村を背に、同志を背に、殊に真暗な一家を背にして、何処までも何処までも走って行きたかった。だが、足には思想のおもり[#「おもり」に傍点]が離れず、頭では間断なく理智の鐘が鳴った。何のこれしき、闘争児の総てが舐める苦痛ではないか、高く批判せよ、あらゆる煩悶を情熱の糧にせよ! けれど、この呟やきも野面を渡る一陣の風であった。一戦ぎの後に、古沼の様な憂欝が襲いかかった。これが、毎日の闘争にまで尾を引いた。今まで気にも止めなかった同志の、ふと不用意に洩す利己的な言葉の端が、棘の様に心にささり、ともすれば白眼をむきたがる仲間の百姓に、日頃にない軽蔑を覚えたりした。
 慎作は恐れ乍らも想った。もう一つの苦痛が、より大きい試練がほしい、それに依って現在の如何にもならないこの怯懦が、このまま絶望の底へ沈潜してしまうか、或はまた、それを契機として再び暁雲の様に情熱が染め出されるか……いささかこの希求に不安とあるおこがましさを覚えつつも、抱かずにはいられなかった。

 白東会を雇って応戦準備を整えた地主達は、戦艦の様に落着き、小作人達の結成を眼下に視下した。「農民組合を脱退して来い。すべての交渉はそれからの事だ」これが動かない最後の返答だった。
 示威と結成の固めを兼ねて、大演説会がS寺の電気のない大広間で開催された。説教壇に弁士が立って激烈な言葉を吐いた。百目蝋燭が聴衆のどよめきにゆらぎ[#「ゆらぎ」に傍点]、その都度、触け合った陰影が生物の如く躍った。
 藤本が演台に立った。川っ縁や林で鍛えた声が、二十四にしては朗々として太かった。金色の仏具に反映する柔かな光芒、感激に息を呑む聴衆、一堂の場景は何か尊厳な、旧《ふる》びたフィルムの様だった。藤本の論点は白東会に及んだ。
「……諸君、地主は遂に白東会を抱き込んだ。これが彼奴等の常套的な最後の手段なのだ。白東会とは何か……名を正義に藉りたる暴力団に過ぎないではないか! 彼等地主は、今や悪剣をとって立ったのだ。諸君は、桜田門外の雪が血に染められたのは! 井伊の握った暴剣の報いであることを忘れないだろう。我等、正義を主張する、国宝たるべき百姓に、剣を持って臨まんとする彼等……」
 この時であった。演壇の直前にすっくと立あがった一人があった。おや、と思う間もなく人蔭は演壇に飛びあがった。
「国賊ッ」叫喚が礫《つぶて》の様に聴衆を打った。
 と、白刃がサッと光芒を切って、高く翳された藤本の右腕に、にぶい強靱な音を立てた。慎作は駈け寄った。どっと殺到する群衆の上で、白刃が瞬間鋭くきらめいたが、忽ち拭われる様に消えた。藤本は血のしたたり落ちる右腕を支え乍ら、微笑を忘れていなかった。左右から警官に掴まれたその男は、荒々しい胸毛の胸をはだけて、闘犬の様に吠え立てた。
「俺は、白東会の前川だ、正成じゃないが、七度生れ変って国賊を誅すぞ」
 犯人を奪おうとして犇く群衆に、揉みほぐされそうになり乍ら警官は退場した。

 藤本の右腕は失われた、だが、彼の逞しい勇気には、失くした右腕だけ附加した様だ。
「なあ、慎ちゃん、こうして俺達の意志は鍛金の様に強くされるんや。白東会の彼等、俺が右腕やられたさかい、もう争議には出るまいて言いふらして居るそうだが、ふン、右腕一本位で、屁こたれる品物と、品物が違うわい。左手と足がまだ二本もあるやないか、かりに、これ皆やられて胴ばかりになっても、若し生きてさえいたら、俺は止めんぞ、そうなったら慎ちゃん、いざり[#「いざり」に傍点]勝五郎やないが乳母車にでも乗って、君に後押して貰うわははは」
「ああいいとも、後押しは引受けた。」
 藤本の凄まじい闘志に、却って励まされる形であったが、それでも慎作は、久しぶりで心の底からはっきりものを言った様に思った。とぐろを巻いていた心が、春を迎えた蛇のそれの様に、のろり[#「のろり」に傍点]と頭をもたげた様な気がした。自家の暗欝は、まだどうしても燃えない薪ではあったが、藤本の遭難は暗い心に一つの窓を開けてくれた。
 病院を同志の宮崎と連れ立って出た時は、黄昏《たそがれ》であった。宮崎は涙をためて藤本の闘志を讃嘆した。
「宮崎、やろうぜ、どうせ、階級戦線に骸《むくろ》を曝す吾々だ」
 慎作も合槌を打ちつつ、寧ろ自分に言い聞かせる気持だった。そうだ。まだ俺の心は死火山ではない筈だ。今に、藤本に負けない活動を初めるであろう。
 常設館の角を曲がってA川に沿って坂をのぼりつめるところ、A橋と小さい公園の入口とが、丁字形に接して居た。そこに夕照を受けて涼みの群が円を造くっていた。近寄るにつれて、はげしい拍手と笑声が聞えてきた。
「何んだろう」と、宮崎は小走りに寄って行った。慎作も大跨になり延びあがる様にして中心をすかし見たが、二三間先の宮崎が突然くるっと廻って慎作を睨み、何か訳の分からない叫けびをあげたので、中心に何があるか分からないままに立止まった。宮崎は何故か酷《ひど》く狼狽して、慎作
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