見えたことや、ここ二年三年のうちに、何千何万と儲けた人が幾人あるか分からん位やないか。小鳥で儲けたら、小作料を負けろって、徒党なんか組んで騒がんでもええのや……」
「それがいけないのだ、争議に加わっている者のうちでも、だいぶ十姉妹に色目つかう者もあるけど、その度におれ[#「おれ」に傍点]は言うのだ。十姉妹の流行なんか決して永久に続くものでもない。と言うと、たとえ流行ってる間だけでも飼うて助かりたいと言うかも知れんが、そう云う心は、自分一人だけよかったら他の者は構わないって言う心と同じだ。百姓は百姓として働き、それで如何しても食えなんだら、それは、天候と地主と社会全体の責任だから、その時は百姓は一致団結して……」
「ええい、黙まらんかッ、この社会主義奴! 十姉妹は大丈夫やわい、この勢いやったら世界中ひろまる!」
「とにかく、おれ[#「おれ」に傍点]はこの理由のもとに、蚕の金なんかで十姉妹飼う事は大反対や」と慎作は断定的に、併し半分はおどけた顔色を忘れずに言った。反射的に、多分祖父は喉で叫んだのだろう、声は出ずに、唇が「何! 何※[#感嘆符二つ、1−8−75] 何※[#感嘆符三つ、92−上−7]」と言う風に動いた。すぼんだゴム風船の様にベロベロ皮膚のたるんだ頸が、驚くほど延びた。慎作は、この一徹な祖父を納得させるだけの言葉を知らない自分が腹立たしかった。いや、自分の思想を如何に噛み易く柔かなものになし得ても祖父の歯牙は、既に区長授与の刹那に於て抜け落ちてしまったのを如何せん……であった。

 その夜、父は、祖父と慎作との間で眼の遣り場に困っていた。
「お父っつぁんの様に言うたかて考えもんやぜ、慎作が反対しよるだけやなく、なんぼ流行かて、きっと儲かるもんとはきまってやせんしなあ、……それに、もう遅いわい!」
 だが、その事より何より、父は慎作の意嚮に気をかねて居ることは確かだった。父にしてみても、不成功だった養蚕をこの鳥で、或はとりかえせるかも知れない事は、何に増しての誘惑であるに違いなかった。
「いや、儲かる、世間をみたら分かるこっちゃ、一体誰れが損をしよったんや? 皆、儲けてるやないか、この村でかて、十姉妹飼えんのは慎作みたいな因果な息子を持った家だけや、慎作に何の遠慮があるのや! 飼え言うたら飼え!」祖父は唾を飛ばしてあくまで決定的であった。
「そやなあ、どっちにしてみてもええ考えやが、十姉妹ででも儲かったら、少しは助かるのやけども……」余程、心動いたらしい母が横から口を出すと、父は何時になく顔を赤くしてたしなめた。
「糸! お前は黙っとれ!」
 併し父は、直ちに祖父の逆襲を受けねばならなかった。
「何やて直造! 糸になんの怒るとこあるのや、そやったら何やな、お前にはこの苦しい家を明るみに出す好い考えがあるのやな、さあ、それを聞かして貰おうかい、この際、鳥より上手な金儲を知ってたら、教えてほしいもんや!」
 父は瞬間、顔を逆撫ぜにされた様な表情をみせたが、すぐと持前の、如何にもお人好らしい微笑をたたえて「これゃ敵《か》なわん」という様な眼色で慎作を見た。
 祖父の罵りと迫る貧困と、さし招ねく誘惑の中で、どう梶をきめて好いか迷い乍ら、辛ろうじて自分を尊重してくれる父に、慎作は心から感謝した。

 けれど、それから一週間ほど経って、委員会が永引いたため夜十時頃帰宅した慎作は、敷居を跨たぐと同時にはッとして棒立になった。蚊遣りの煙りが薄い幕の様に立ちこめたほの暗い土間で、白襦袢一枚の父と祖父とが並んで坐り、父は板をカンナ[#「カンナ」に傍点]で削っていた。坐禅めいたあぐら[#「あぐら」に傍点]姿の祖父が、両手を膝に端然とつき、亀の様に首を延ばして父の手付を頼もし気に覗き込んでいた。薄い燭光と蚊遣りの煙りに包まれた二人の周囲に、心なしか、何か秘密の作業場と云った雰囲気が感ぜられた。門口に突立った慎作をみて、台所で縫物をしていた母も、土間の二人も、一瞬、息を呑んで体を固ばらせた。と、父は慌てて側に置いた鳥籠を糠桶の蔭へ押しやった。そして、不自然なほどかがみ込んでカンナ[#「カンナ」に傍点]に力を入れた。「シュッ、シュッ」と、カンナ[#「カンナ」に傍点]の音が何かの悪い前兆の様に四辺に際立って、むくれあがる白いカンナ[#「カンナ」に傍点]屑が傷ついた者の様に転がった。白い眉をあげて祖父は屹《きっ》と慎作を見たが、思い返したように舌打して向き直り、故意《わざ》と慎作を無視する様な高い皺枯れ声を出した。
「これで八つ位は、大丈夫出来るやろな?」
「……う……」父は曖昧に首肯いていよいよかがみ込んだ。胸一杯にふくれあがってくる強い感激めいたものを拒むように、慎作は晴れがましく「只今!」と言って上がった。母は、慎作の飜った態度にほっとして、すがりつく様に言った。
「慎作、粥《かゆ》、温めるかい」
 慎作は首を振って、冷めたい芋粥を水の様に流し込んだ。たかが些細な十姉妹の問題だ、自己の主義主張と家人の行動とは、必ずしも併立するものじゃない、清濁あわせ呑む度量と、矛盾の中での一つの……けれど鼻が痛く眼頭が熱く見まいとしていて視線を土間に引寄せられた。無論、父は祖父の強制に、詮方なく露の様に向う側へ転んで行ったに違いなかった。責めたてられる奴隷の様に手を休めなかった。祖父は愈々肩を張り、ゴムの様に唇をもぐつかせていた。慎作が食事を終っても二人は土間を離れなかった。
「もう、好加減にして寝なはれ、明日また、水換えで急がしいさかい!」と、母が白けた空気をとりなす様に言ったのをきっかけに、二人は道具をかたづけたが、寝ようとはせずに慎作の居る火鉢の前に坐って無闇と煙草を吹かした。父は、すまなさそうに慎作の眼を逃げては故意とらしい咳払いに何度も拘泥し、祖父は喧嘩前の腕白みたいに唇を尖がらし、バタバタと団扇を煽った。慎作は、この場合何とか言わねばと思っていて、思考がとりとめないままに深く沈んで言葉が無かった。
「慎作、やっぱり十姉妹飼う事に定めたぜ」
 祖父は止《とど》めの様に言い切って心持身構えたが、何時までも慎作が黙っているので気抜けした様に声を落し「なんぼお前が嫌いかてこうなったら、藁にでも掴まるより仕様あらへん、さあ、直造、寝よ、寝よ……」と、危っかしいすり足で次の間に入った。
 思い切って慎作は、併し哀願的に言わずにはいられなかった。
「お父っつぁん、どうしても十姉妹飼うのかい」
「…………………………」
「鳥渡、考えただけでは別に悪い事とは思えんけれど、この間から何度も言う様に、俺の立場から言うと……」慎作が父の顔を見ない様にして言い続けようとすると、父は狼狽《あわ》てて「いや、その事やったら、よう分かってるのやが」とせき込んで遮切《さえぎ》ったが、何かの固まりの様に唾を呑むと弱々しく呟やいた。
「何せ。爺さんはガミガミ言うし、蚕があんな様やった上に、この旱りやろ……おまけに、この秋に返えさんならん借金の当は皆目つかんしなあ、わしかて、お前の理窟は成程と思うてんのやが……」
「俺も、お父っつぁんの心配は分り過ぎる位分かってるよ、充分家の手伝出来ん俺がかれこれ言う権利はないか知らんが……」
「いいや、そんな事あらへんけど……」
 慎作への理解を眼色にふくめて、彼の述懐をいたわってくれた父の言葉を、次の間から祖父の疳癪声が更に強く打消した。
「そやそや、慎作なんかに、ちょっとも権利なんかあらへんぞ」
 後に、白けた沈黙が深かった。
 慎作は、坑道を見失った土龍《もぐら》の様な父が、最後に頼ろうとする飼鳥を、理性一点ばりで拒否する自分が非常に冷酷なものに思えてならなかった。赫黒い父の額に、藪蚊が一匹血に膨《ふく》れて止まっていたが、鳥渡、眉をしかめただけで叩こうともしなかった。掌のマメ[#「マメ」に傍点]をぼりぼり掻きつつ、頭の中で難解な謎でも解きほぐそうとするかの様に、永い間、上眼遣いに顔を動かさなかったが、ふと決心した様に父は、慎作を真直に見た。
「お前が、顔出し出来んことやし、そうや、やっぱり十姉妹は止めにしよう」
「ええ、止める?」
「ああ、爺さんは怒るやろが、止めるよ、何とか考えよう」
 父はにじむ様に微笑した。同時に次の間で「何やて、止めるて※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と祖父の叫びがしたかと思うと、ゴソゴソ赤児の様に匍い出して来た……。

 父の飜意に、慎作は自分のために飼鳥を思い止まってくれたのだと言う喜こびだけでは足りない、もっと大きい感激を覚えた。寧ろ自分への愛だ等と推断するのは、父への冒涜だと思った。父に一つの根強い自覚を見た……そう慎作は考えた。

 が、その翌晩、何処へ行ったのか父は十二時過ぎまで帰らなかった。それは今までに無い異例だったので慎作は非常にいぶ[#「いぶ」に傍点]かったが夜更けに帰宅した父の、大きい過ちでも犯したような自卑的な眼差しと物腰しを、狸寝の眇《すが》めに見せつけられて、尚の事、不審を大きくした。不躾な祖父の追窮にも、父は誤魔化す様に笑うのみではっきり言おうとはしなかった。それが隔日か、二日置きに半月程も続いた。
 その間に只一度、珍らしく濁酒《どぶろく》を呑んで酔った時、父は哄笑しながら「まあ、爺さんも、慎作も、心配せんと見てておくれ、今に皆んなをアッと言わせるからな、それまで種明しはおあずけや、あははは、近いうちに、皆んなでエビス顔やぜ」と言った事があったが、その調子が如何にも附元気らしく、あはははと笑っても、その笑顔が今にも惨めな泣顔に変りそうなのを、慎作はいやにはっきり感じた。併し父は、それ以上の詰問には碁盤の様に固ばるのみで答えなかった。
 父の秘密な外出――この間に遊びという感じは毛頭なかった。それだけにまた異様な恐怖を、大袈裟に言わば密封された恐ろしい贈物を前に置く様な恐怖を、抱かずにはいられなかった。
 ある晩、とうとう母は、祖父には内密に自分の想像を、そっと慎作に打明けた。
「ひょっとすると……あの人、田村へ行ってるのかも知れへんぜ」
「田村へ!……まさか……」と打消したものの、慎作は変に吐胸をつかれた。予想外の事ではあったが、言われてみると、この際、案外近々しい想像なのに驚かされた。田村の賭場へ父が……と想っただけで、「勝負!」と骰子壷の伏せられた瞬間、試みにピアノの鍵盤を叩いてみたら、その音波が散り拡がろうとはせずに何時までも響いていそうな、極度にはり切った空気、押し潰した囁やきと、袖口と胸元から隠見する入墨、その片隅で、例のお人好らしいにじみ笑を浮かべて、しかし両手は中風の様に震わせているであろう土に汚れた父……が見える様だった。ふと画がき出した幻影の様なこの想像に、見る間に、額にはまった絵の様な確実味が帯びた。だが慎作は何気なく言った。
「母さんに、思い当たる節でもあるの」
「そやかて……こないに毎晩、何処へ行くとも言わんと出て行くのが、第一変やないか、それにあの人の、近頃、落着きのないこと、そら可笑しい位やぜ、引出しの鍵はあの人が持ってるよってに、蚕の金はどうなったか知らんけど、な、慎作、きっとそうやで」
 ひそめるだけ声をひそめた母は、若し慎作が、「そうだ、それに定まった」とでも言おうものなら、わッと飛び立ち兼ねない様子を示していた。十姉妹を一つの自覚から思い止まってくれたのだとすると、その父がこっそり賭場通いする等とは、どうしても算出されない筈の答案ではあったが、また一方、たとえ飼鳥は思い切っても他に何とか格恰をつけねばならない責任のある父にしては、あの晩、既に「賭場」が思い当っていたのかも知れないとも考えられた。自覚からじゃなかった、少くともそれは第一義じゃなかった。子煩悩から支持する愛児の面目を、理由は第二として盲愛から立てずにはいられなかったのだ。そうは思っても、慎作は父に対して決して幻滅を覚えたりはしなかった。総てを胸のうちにおさめて臆病な父が、賭場通い等と言う様な冒険を決意した……その間の苦渋が胸の痛むほどに察しられた。
 田村の賭場は、巧妙な客
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