からむとす。人の世の言葉や、思想は、其《そ》の神秘的、具象的事相の万一をだに彷彿《はうふつ》せしめがたき概あるにあらずや。吾れ之《こ》れを思うて、幾たびか躊躇《ちうちよ》し、幾たびか沮喪《そさう》せり。而して今にして知りぬ、古人が自家見証につきて語る所の、毎々徒《つね/″\いたづ》らに人をして五里霧中に彷徨《はうくわう》せしむるの感ある所以《ゆゑん》を。彼等が心血を瀝尽《れきじん》して其の見証の内容を説くや、時に発して煌煌《くわうくわう》たる日星の大文章をなすことあれど、而かも其の辞|愈々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]繁《いよ/\しげ》くして、指す方のいよ/\天上の月を離るゝが如《ごと》き観あるは如何にぞや。彼等が悟を説くや、到底城見物の案内者が、人を導きて城の外濠《そとぼり》内濠をのみ果てしなく廻《めぐ》り廻りて、竟《つひ》に其の本丸に到らずして已《や》める趣きあるなり。古人にして然《しか》り、今所証の浅き予にして悟を説かんとす、説く所或《あるひ》は其の一膜を剥《は》ぎ、更に其の一膜を剥ぎ、かくして永久竟に人をして其の核心に達せざらしめんことを虞《おそ》る。されば、予は竟にこの一事を抛《なげう》たざるべからざる乎《か》。否《いな》、否。神はわが枯槁《こかう》の残生に意味あらせんとて、特にこの所証を予に附与したまへるにあらずや。この所証を幾分にても世に宣《の》べ伝ふるは、吾が貴き一分の使命の存する所にあらずや。げにや、悟といひ見証といふもの、所詮《しよせん》は言説の伝へ得べき限りにあらざるべし。しかはあれど、わが満心の自覚を一揮直抒《いつきちよくじよ》の筆に附して、尚《な》ほ能《よ》く其の駭絶の意識の、黝然《いうぜん》たる光の穂末をだに伝へ得ざる乎、その微《かす》かなる香気《かをり》をだにほのめかし得ざる乎。能と不能とすべて神にあり。吾れは唯々[#「々」は、底本では踊り字の「?フ字点」]《たゞ》自ら見得せる所を如実に語り出《い》づべきのみ。
神の現前[#「現前」に傍点]若《も》しくは内住[#「内住」に傍点]若しくは自我の高挙[#「高挙」に傍点]、光耀[#「光耀」に傍点]等の意識につきては、事に触れ境に接して、予がこれまで屡々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]躬《しば/\みづか》ら経たる所なりしが、而かもその不磨の記憶となりて永く後ちに残る程
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