かと思ふと、ついとまた石垣の穴にかくれた。午頃《ひるころ》の巷《ちまた》は沙漠のやうに光が澱んで居た。音のない光を限り無く深く湛《たゝ》へて居た。
 その中に、如何かして、空の一方に雲の峯がむくり/\と現はれて、雲母の層のやうにキラ/\光って居るのを見ると、人々はあれが雨になればよいと思った。午後になって、夕日がパッとその雲の層に燃え付いて、青い森や丘に反射してるのを見ると、明日は雨になるかも知れないと予期された。明るく暮れて行く静かな空に反響する子供達の歌声が、慵《ものう》く夢のやうに聞えた。
 アカナー ヤーヤ
 ヤキタン ドー
 ハークガ ヤンムチ
 コーティ
 タックワー シー
 夕焼があると、何時でも子供達が意味の解らぬなりに面白がって歌ふ謡《うた》である。だが日が暮れ切ってしまふと、その雲の層は何処へやら消えて行って、空が地に近づいて来たやうに、銀砂子のやうな星が大きく光って居るのが見えた。

 さう云ふ昼と夜とが続いて、百歳も草木の萎えたやうに、げんなり気を腐らせて居た。職務上の事でも神経を振ひ立たせ(る)程の事はなかった。何となく、生きて居る事が慵くてやり切れないと云ふ感じを感ずるともなく、感じて居た。
 こんな気持に倦《う》み切って居た或晩、彼は鹿児島生れの同僚の一人に誘はれて、海岸へ散歩に出た。
 珊瑚礁から成って居る此の島の海岸の夜色は其処に長く住んで居る者にも美しい感じを与へた。巌が彼方此方に削り立って居るが、波に噛まれた深い凹みは真暗に陰って居た。渚に寄せて来る波がしらが、ドッと砕ける様が蒼い月光の下に仄白く見えた。何処か丘のあたりや、磯辺で歌って居る遊女の哀婉の調を帯びた恋歌の声が水のやうに、流れて来た。その声が嬌めかしく彼の胸を唆った。海の面から吹いて来る涼しい風は彼の肌にまつはりついた。彼の坐って居る前を、時々、蒼白い月光の中に、軽い相板《トンピヤン》らしい着物を纏った遊女の顔が、ぼんやりと白く泳いで行った。
 その夜、散歩の帰りがけに百歳はその友達に誘はれて、始めて「辻」と云ふ此の市《まち》の廓へ行った。
 高い石垣に囲まれた二階家がずっと連って居る。その中から蛇皮線の音、鼓の響、若い女の甲高い声が洩れて来た。とある家の冠木門を潜ると、彼の友達はトントンと戸を叩いて合図をした。するとやがて、
「誰方《たあ》やみせえが[#「やみせえが」に傍点]。」
 と云ふ女の声が聞えて、戸が開いた。女は友達の顔を見ると、二コリと笑って見せた。
「入《い》みそー、れー、たい。」
 二人は「裏座《うらざ》」に導かれて行った。其処は六畳の間で、床には支那の詩を書いた軸物が掛って居るし、その傍には黒塗の琴が立てられてあった。片方の壁の前には漆塗りの帳箪笥が据ゑられて、真鍮の金具が新しく光って居る。その傍には低い膳棚《ぜんだな》が、これも未だ新しくて漆の香がとれないやうに見えた。その反対の側には六双の屏風が立てられて居るが赤い花の咲き乱れた梯梧の枝に白い鸚鵡《おうむ》が止って居る画が描かれてあった。
 百歳の眼には凡てのものが美しく珍らしく見えた。
 やがて、女達が朱塗の膳に戴せて酒肴を運んで来た。二人が酒を酌み交して居る間、女達は蛇皮線を弾いたり、歌を歌ったりした。十四、五に見える美しい妓が赤いけばけばした模様の着物を着て出て来て、扇を持って舞ったり、薙刀《なぎなた》をもって踊ったりした。
 百歳は始めの中はてれて居たが、泡盛の酔が廻ると、自分でも珍らしい程はしゃぎ出した。終に彼は冗談を云って女達を笑せたり、妙な手つきで其処にあった鼓を叩いたりした。
 その夜、百歳は始めて女を買った。彼の敵娼に定ったのは、「カマルー小」と云って、未だ肩揚のとれない、十七位の、人形のやうに円いのっぺりした顔をした妓であった。何処となく子供らしい甘へるやうな言葉付が彼の心を惹いたのであった。だが、酒宴を止めて愈々、その妓の裏座に伴れて行かれた時、彼は流石に、酔が覚めて、何とも知れぬ不安が萠して来るのを覚えた。彼は火鉢の猫板に凭りかかって、女が青い蚊帳を吊ったり、着物を着換てるのを、見ぬ振をして見て居た。着物を着換てる時、女のむっくり白く肉付いた肩の線が、彼の視線に触れた。しなやかな長い腕の動きが、彼の睚眦《まなじり》に震へを感じさせた。
 薄い寝巻に着換へた女は、蚊帳の吊手を三方だけ吊った儘、彼の側へ寄って来た。彼は黙って土瓶の水を茶碗に注《つ》いで飲んだ。女は団扇を取り上げたが、扇ぎはせずに、矢張り火鉢に凭りかゝって、火鉢の中の白い灰を見入って居た。時々、女が深く息を吐《つ》くのが、彼の耳に聞えて居た。

 翌朝、彼は青い蚊帳の中に、女の側に寝て居る自分を見出した。軽い驚駭と羞恥と、横隔膜の下からこみ上げて来る喜悦とを一緒に感じた。然し、女が眼を覚ましてからは、極り悪い感じをより多く感じた。「仲前《なかめえ》」まで、女に送られて、
「また、明日《あちやあ》ん、めんそーり、よー。」
と云はれた時、彼は何物かに逐はれるやうな気持がして、急いで其処を出ると、人通りの少ない路次を通って家へ帰った。その日は家の人に顔を見られるのも極り悪い思ひがした。彼は何でもない事だと思ひ返さうとしても、如何しても、自分が悪い事をしてしまったやうな感じがするのを打ち消す事は出来なかった。
 もう二度と行くまいと思ったが、彼は友達に紹介されて、その女を買ったので、未だ女に金銭をやってはなかった。その金銭だけは持って行ってやらなければと考へて、その月の俸給を貰った晩、彼はそっと一人で、その女の居る楼《うち》に行った。彼は女の「裏座」に入ってから、碌に話もしないで、立て続けにお茶を二、三杯飲むと、(琉球人は盛んに支那茶を飲む)極り悪さうに、財布から五円札を一枚出して、女に渡した。女はそれを手にも取らないで、彼が帰りたさうにして居るのを見て取って、彼を引き留めた。恰度、其処へ入って来た女の朋輩も、
「遊《あし》びみ、そーれー、たい。」
 と云って一緒に彼を引き留めた。とう/\彼はその晩も其処で泡盛を飲んで、女の「裏座」に泊った。
 百歳は翌日、家に帰った時、母に俸給の残り十八円を渡して、後の五円は郵便貯金をしたと云った。さうして彼は母に、郵便貯金とは斯様々々のものであると云ふ事を可成り悉しく話した。母は黙って領いて居た。
 それから百歳は行くともなしに、二、三遍、女の所へ行った。逢ふ事が度重なるに随ってその女の何処となしに強く彼を惹き付ける或物を感じた。それは女の、柔かい美しい肉体だか、善良な柔順な性格だか、或ひは女の住んで居る楼の快い、華やかな気分だか、彼には解らなかった。彼はたゞ、磁石のやうに女に惹き付けられる気持をだん/\判然《はつきり》、感じて来た。
 その女は――カマルー小は、田舎では可成り田地を持って居る家の娘だったが、父が死んでから、余り智慧の足りない兄が、悪い人間に欺されて、さま/″\の事に手を出して失敗した為め、家財を蕩尽した上に、少からぬ負債を背負ったので、家計の困難や、その負債の整理の為めに、彼女は今の境涯に落ちたと云ふ事であった。さう云ふ話をする時の彼女は、初めに見た時とは違って、何処となくしんみりした調子があったが、それが却って百歳に強い愛着を感じさせた。
 その歳は長い旱魃が続いた為めに、一般に景気が悪かった。随って此の廓でも、どの楼でも客が途絶え勝ちであった。カマルー小の所に通って来る客も二、三人しかなかったが、その客もだん/\足が遠くなって行った。その女を訪ねて行くと、百歳は何時でも、「仲前《なかめえ》」で彼の来るのを待ち兼ねて居る彼女を見出した。彼は、女がさう云ふ態度を見せるに随って、自分の愛着がだん/\濃かになって行くのを感じながら、それを抑制しょうとする気も起らなかった。
 百歳は次の月の俸給日の晩には、女の楼へ行くと、思ひ切って十円札二枚をカマルー小の手に渡した。女はそれを見ると
「こんなに沢山貰っては、貴方がお困りでせう。一枚だけでいいわ。」
と、さう云って、後の一枚を押し返すやうにした。百歳は、
「貰っとけよ。もっとやる筈だが、また、今度にするさ。」
と云って、彼はその札を女の手に押し付けた。
 翌日、家へ帰ると、彼は母に、今月の俸給は、非常に困って居る同僚があったので、それに貸してやった。が、来月は屹度返して呉れるだらうと云った。さう云ふ時、彼は顔が熱って、自分の声が震へるのを感じた。母は不審さうな眼付で彼の顔を視て居たが、何にも云はなかった。
 その月、九月の二十七日の午後から、風が冷たく吹き出した。百歳は警察で仕事をし乍ら、雨でも降り出すかと思ってる所に、測候所から暴風警報が来た。
「暴風ノ虞アリ、沿海ヲ警戒ス」
 石垣島の南東百六十海里の沖に低気圧が発生して北西に進みつゝあると云ふのであった。
 夕方から風が吹き募った。警察署の前の大榕樹の枝に風の揺れて居るのが、はっきり見えた。雀の子が遽しく羽を飜《かへ》[#ルビの「かへ」はママ]して飛び廻った。柘榴の樹の立ってるあたりに黄ろい蜻蛉がいくつとなく群を成して、風に吹き流されて居た。街の上を遠く、かくれがを求めて鳴いて行く海烏の声が物悲しく聞えた。
 百歳はその晩、警察で制服を和服に着換へて女の楼《うち》に行った。女達は暴風雨の来る前の不安で、何かしら慌だしい気分になって居た。其処らの物が吹き飛ばされないやうに、何も彼も家の中に取り入れた。
 日が暮れて間もなく、風と一緒に、ザッと豪雨が降り出した。戸がガタ/\鳴って、時々壁や柱がミシリ/\と震へた。電燈が消えてしまったので、蝋燭を点してあったが、仄暗いその火影に女の顔は蒼褪めて見えた。女は戸が強くガタン/\と鳴り出すと、怯《おび》えたやうに、
「如何《ちやあ》ん、無《ね》えんが、やあたい。」
 と云って彼に寄り添《そ》うた。ヒューッと風がけたたましく唸るかと思ふと、屋根瓦が飛んで、石垣に強く打突《ぶつつ》かって砕ける音がした。
 暴風雨は三日三晩続いた。彼は中の一日を欠勤して三晩、其処に居続けた。烈しい風雨の音の中に対《むか》ひ合って話し合ってる中に、二人は今迄よりは一層強い愛着を感じた。二人はもう一日でも離れては居られない気持がした。彼は、何とかして二人が同棲する方法はないものかと相談を持ち出したが、二十三円の俸給の外に何の収入もない彼には結局如何にもならないと云ふ事が解ったばかりであった。彼は金銭が欲しいと思った。一途に金銭が欲しいと思った。
 その時、彼には女の為めに罪を犯す男の気持が、よく解るやうに思はれた。自分だって若し今の場合、或る機会さへ与へられたら――さう思ふと彼は自分自身が恐ろしくなった。
 四日目に風雨が止んだので、彼は午頃女の楼を出て行ったが、自分の家へ帰る気もしなかったので、行くともなしに、ブラ/\とその廓の裏にある墓原へ行った。
 広い高台の上に、琉球式の、石を畳んで白い漆喰を塗った大きな石窖《いしむろ》のやうな墓が、彼方此方に点在して居た。雨上りの空気の透き徹った広い墓原には人影もなく寂しかった。
 彼は当途もなく、その墓原を歩いて居た。
 所が、彼が、とある破風造りの開墓《あきはか》の前を横切らうとした時、その中で何か動いて居る物の影が彼の眼を掠めた。彼が中をよく覗いて見ると、それは一人の男であった。彼は突如《いきなり》、中へ飛び込んで行って男を引き擦り出して来た。その瞬間に、今までの蕩児らしい気分が跡方も無く消え去って、すっかり巡査としての職業的人間が彼を支配して居た。
「旦那さい。何《ぬー》ん、悪事《やなくと》お、為《さ》びらん。此処《くまん》かい、隠《かく》くゐていど、居《を》やびいたる。」
 彼が無理無体に男の身体を験《しら》べて見ると、兵児帯に一円五十銭の金銭をくるんで持って居た。彼は、的切《てつきり》り[#「的切《てつきり》り」はママ]窃盗犯だと推定した。男に住所や氏名を聞いても決して云はなかった。たゞ、
「悪事《やなくと》お、為《さ》びらん、旦那《だんな》さ
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
池宮城 積宝 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング