を歩いて居たと珍らしさうに話すのを聞くと、彼等は隠し切れない喜悦の感情を顔に表はした。さう云ふ人々はさも、彼に逢ふと云ふ事その事だけでも異常な事であるかのやうに喜んで話すのだった。さうして、中には、家の子供も将来は巡査になって貰はなければならないと云ふ者もあった。
月の二十五日には、百歳はポケットに俸給を入れて帰った。彼は初めて俸給を握る歓びに心が震へて居た。右のポケットに入ったその俸給の袋を固く握り乍ら、早足に彼は歩いた。家に着くと、彼は強いて落着いて、座敷へ上ってから、平気な風に、その俸給袋を出して、母に渡した。
「まあ」
と嬉しさうにそれを押し戴いて、母は中を検《あらた》めて見た。さうして紙幣を数へて見て、
「ああ、千百五十貫(二十三円)やさやあ[#「やさやあ」に傍点]。」
と云った。俸給はそれだけあると聞いて居たが、彼女は現金を見ると、今更ながら驚いたと云ふ風であった。
二、三ケ月は斯うして平和に過ぎた。だが、家族はだんだん彼の心が自分達を離れて行くのを感じ出した。彼はまた、部落の若者達を相手にしなくなった。すると、部落の人々も何時とはなしに彼に対して無関心になって行った。今や彼の心の中には、巡査としての職務を立派に果すと云ふ事と、今の地位を踏台にして、更に向上しようと云ふ事の外に何物もなかった。
その上に彼はだんだん気難かしくなって来た。家に帰って来ると、始終、家が不潔だ、不潔だと云った。さうしてその為めに屡々厳しく妹を叱った。殊に一度、彼の同僚が訪ねて来てからは一層、家の中を気にするやうになった。彼が怒り出すと、どうしてあんなに温順《おとな》しかった息子が斯うも変ったらうかと母は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、ハラハラし乍ら、彼が妹を叱るのを見て居た。
それが嵩じると、彼は部落の人々の生活に迄も干渉を始めた。彼は或日祭礼のあった時、部落の人々が広場に集ったので、さう云ふ機会の来るのを待ち兼ねて居たやうに、その群衆の前に出て話を初めた。それを見ると、彼等は百歳が部落の為めに何か福音を齎らすのであらうと予期した。何故なら、彼等は、彼等の部落民の一人である所の奥間百歳を巡査に出したことに依って、彼等は百歳を通して「官」から何か生活上の便宜を得るであらうと予想して居たのだったから。――租税を安くして貰ふとか、道路を綺麗にして貰ふとか、無料で病気を治療して貰ふとか……さう云ふ種類の事を漠然と想像して居たのであった。
所が、彼の話はすっかり彼等の期待を裏切ってしまった。彼は斯う云った。
「毎日、怠らずに下水を掃除しなければならない。夏、日中、裸になる事を平気で居る者が多いが、あれは警察では所罰すべき事の一つになって居る。巡査に見付かったら科料に処せられるのである。自分も巡査である。今後は部落民だからと云って容赦はしない。われ/\官吏は「公平」と云ふ事を何よりも重んずる。随って、その人が自分の家族であらうと親類であらうと、苟も悪い事をした者を見逃すことは出来ない。」
さう云ふ種類の事を――彼等の間ではこれまで平気で行はれて居た事を――彼は幾つも挙げて厳しく戒めた。さうして最後に斯う云ふ意味の事を云った。
「それから、夜遅くまで飲酒して歌を歌ふ事も禁じられて居る。酒を飲む事を慎んで、もっと忠実に働いて、金銭を貯蓄して今よりも、もっと高尚な職業に就くやうにしなけれはならない。」
彼がだん/\熱を帯びて、声を上げて、こんな事を言ひ続けて居るのを部落民は不快さうな眼付で見て居た。彼等は、彼が彼等と別の立場にある事を感じずには居られなかった。祭礼が終って、酒宴が始ってからも、誰も彼に杯を献《さ》す者はなかった。
時々、彼の同僚が訪ねて来ると、百歳はよく泡盛を出して振舞った。彼の家に遊びに来る同僚は可成り多かった。中には昼からやって来て、泡盛を飲んで騒ぐのが居た。どれもこれも逞しい若者で、話の仕方も乱暴だった。此の辺の人のやうに蛇皮線を弾いたり、琉球歌を歌ったりするのでなしに、茶腕や皿を叩いて、何やら訳の解らぬ鹿児島の歌を歌ったり、詩吟をしたり、いきなり立ち上って、棒を振り廻して剣舞をする者もあった。
おとなしい百歳の家族は、さう云ふ乱暴な遊び方をする客に対してはたヾ恐怖を感ずるばかりで、少しも親しめなかった。さうして、そんなお客と一緒に騒ぐ百歳を疎《うとま》しく感ずるのであった。
部落の人々は巡査といふものに対しては、長い間、無意識に恐怖を持って居た。そこで、初めの中こそ百歳が巡査になった事を喜んだものの、彼の態度が以前とはガラリと違ったのを見ると不快に思った。その上に彼の家へ屡々、外の巡査が出入するのを烟たがった。その巡査達は蹣《よろ》けて帰り乍ら、裸かになって働いて居る部落の人を呶鳴
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