歴史の概念
狩野亨吉

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      一

 歴史の概念とは歴史が如何なるものかを突止め把握し得たとき、之に關する知識である。今その一端を述べようとするのであるが、先づ例證より探を入れることとする。
 支那の古い時代には歴史といふ語は無い。唯史とばかり呼んでゐた。このことは史記から明史に至るまでの歴代の正史は云ふに及ばず、主なる史書に使用してゐないのを見て推知すべきである。明末になつて、俗間一二の書物の表題に此語を使用したのが抑もの始でないかと想はれる。其中の歴史網鑑補といふ本は萬暦年間に袁黄といふ學者が書いたとなつてゐるが、此本を我國で寛文三年に翻刻し、爾來相當に行はれ、明治の初年までも讀まれたものである。此本からでも氣付いたものか、徳川時代に歴史と二字を連ねたものに、元禄年間刊行の巨勢彦仙の本朝歴史評註があり、享保年間編成の松崎祐之の歴史徴がある。しかし甚だ稀に見る程度のものであつたが、維新後流行り出し、文部省で學校の科目に此名を採用するに至り忽ち全國に普及し、終に三尺の童子の口にも上る親しき語となつた。その反響が支那まで達し、今では我國と同樣に使つてゐる。
 史は説文に事を記す者と解いてある如く、元來朝廷に於て記録の編纂を司どる人の役名であつたのを、後に編録した書物にも此名を應用するに至つたものである。即ち史の一字で事實を記述する意味が十分に備つてゐるのであるから、他の字を加へる必要のない譯であるが、何故に歴の字を附けたかを探して見ると、これは支那の文章では語を現すに一字では滿足せず、二字を駢べて威容を整へる習慣のあつたことから起つたと想はれる。
 歴は字典に過ぐる或は經ると解き、又行列の意味もあるが、行列の意味は經過の意味から派生すると考へて差支はない。此等の意味で史と結合の可能性がある。前の意味で結附けるには歴を名詞とし、結附けた二字を經過した事實の記録と取るべきである。後の意味で結附けるには歴を形容詞とし、自然に歴代の史といふことになるのである。網鑑補に冠したのは恐らく後の意味であつたらうと想はれる。しかし此意味を固守する必要はない。現在吾人の解するところは前の意味であり、その意味に取るとき歴史の二字の上に所謂歴史の概念が彷彿として浮出し來るのを覺ゆるのである。

      二

 事實といふ語は確なことがらの意味で、韓非子、史記などの古い本に見えてゐる。似た語の事件はあつさりと出來ごとを指すのであるが、古いものでないやうである。又事物と云ふ語もあるが、これは單純にものごとの意味で、廣く有氣無形に應用の利く、可なり古くからの語である。三ツの語は孰も所謂現象を指すのであるが、目の著け所が多少異るので、使用の目的を異にする。吾人は確實なりとの意味に重きを置き、事實と云ふを選んだのであるが、適當と思ふ場合には他の語を使用することもあるのであらう。しかし一番肝心な事實といふ語の使用を誤つてはならないから、今日學者の考へてゐる意味を岩波哲學小辭典で引いて見ると「普通の意味では或時、或處に起りし出來事或は經驗を指し、それを判斷の形式で云ひ表はした特殊的な偶然的な知識」と書いてある。即ち之を約言すれば感官に觸れ理性に認められた現象を云ふことになり、單純な知識とのみ取るのではない。そこに偶然的とあるは了解しかねるが、特殊的の程度のこととすると、他の事實との關係を考へる必要のないこと、即ち單獨性を指したものと取つて置く。さて感官に觸れるには或場所を占めて居なければならぬ譯であるから、空間に席を持たないと信ぜられてゐる心的現象は事實の仲間から除外せられることになる。しかしながら場所を占めてゐないからと云つて確でないとは限らない。何となれば事實を認識して事實と立てたのは心である。其心は一般哲學者が信ずる如く神祕的のものであるか、又一派の心理學者の云ふ如く喉頭筋の作用であるかは問ふところでない。兎も角認識作用を營むものであればそれでよろしい。然らば心はあらゆる事實に先つて第一に確かなる存在である。之を最も根本的な事實と取つて差支ない。在來心を事實の種類と見做さなかつたとすれば、それは見解の透徹しなかつたためであれば、勿論之を拒絶する理由とはならない。却て心が事實の仲間入をするのは、事實の側では一般に重要性を持つことになつたと取つて然るべきである。さうすると又心に依存して生起するあらゆる心的現象は、慥に心が認識承知出來ることであるから、これ又明に一々事實と取るを得べきものである。
 前陳の考察は事實の範圍を擴張して物的現象も心的現象も即ちあらゆる現象は皆事實なりと取るのであるが、知るべき限りの宇宙はあらゆる現象の總和に外ならぬ筈であるから、即ち又事實の總和である。則ち茲に宇宙は全一最大の事實と見做されることになる。而してあらゆる事實は其構素として從屬關係を取り、各※[#二の字点、1−2−22]の事實は又從屬關係或は同位關係により連絡制約せられた複雜無限の連鎖に發展する。之を事實網と名づけるであらう。事實網は現象の連絡制約を意味するもので、即ち事實の相對性を規定することを思はなければならない。世間に絶對と稱せられるものが少くないが、もしそれが事實網の何所かに見出されるなら、絶對と見るは錯覺であると想ふべきである。事實網は其儘現象網であり、又知識網に變形し得べきことは言ふまでもない。

      三

 事實網は其儘宇宙の實體を成すものであるから、至るところ空虚たるを許さない。其所に必ず内容がある。其内容の機構が明瞭に觀察出來る場合もあり、模糊として捕捉し難い場合もある。一般に物的現象は前者に屬し、心的現象は後者に屬するやうに想はれてゐるが、必しも左樣ではない。凡そ物の見方に巨視的と微視的と云ふことがある。前者は五官により物の表面を見る立場を云ひ、後者は裏面に徹し精密に吟味する立場を云ふのであるが、物的現象と雖も微視的に考察することになると、甚だ困難を感ぜしめ、終には分らないところに達するのである。さうした例を擧げて見ると、餘りに有名な話であるが、ニュートンは物體が地上に落ちる現象を掘下げて、物質間に互に相引合ふ力があることを證明し、之を引力と名づけた。同時に其引力により二ツの質點が操られて動くときは、各※[#二の字点、1−2−22]他點を焦點とする圓錐曲線を描くことが又證明された。ところが更に一質點を加へて見ると、三ツの質點が如何なる運動を爲すかと云ふことは、流石のニュートンも齒が立たない難問題と化したのである。偖この引力の正體は今以て判然せず、學者の研究により彌※[#二の字点、1−2−22]複雜化するに至り、又この難問題も依然として未解決の儘殘されてゐる。又一例を取ると、あらゆる物體は分子より、分子は原子より構成され、其間の作用は因果的に規定されることは、昔から知られてゐるのであるが、最近學者の研究によれば、分子原子の奧深いところを覗見ると、其所には萬能と考へられた因果律も應用出來ない場合があることが分つて來た。これは吾人の通念を根柢から覆す重大事件である。以上短く説明し易い例を物理現象より選んだのであるが、類似の例證は他の自然現象に於ても目撃することが出來る。そこで普通の意味を考ふれば、物的現象は巨視的には林檎の落ちるに氣が附く如く、馬鹿も知ることが出來るが、微視的には眼にも見えぬ小さいくせに、因果法何物ぞと空嘯く怪物が目の前に群集するを認めざるを得ざる如く、釋迦も手古摺る難物である。物的現象にして既に此の如しとすれば、五官の力を以て捕捉することの出來ない心的現象は、實際手の著け樣もない次第であらねばならぬ。然るに幸に自己は一應の心的經驗を有するが故に、之に準じて他人の場合を類推する便宜もあれば、巨視的に理解することの出來る場合は少くない。しかしながら微視的には往々五里霧中に彷徨する如き感を抱かしめられることあるは止むを得ないのである。一例を申せば、責任と云ふことは、常識の結晶ともいふべき法律の認めるところで、誰でも有ると信ずるが、これは巨視的で立つるところで、更に微視觀を以て何から起つたかと尋ねると、これを説明するため良心とか自由意志とか一層分りにくいものが持出され、進んで天とか神とか到底捕捉し難いものに飛着く藝當を強られ、遂に誤認や信仰の八幡知らずに陷入するのである。
 茲に至り吾人の知るを得たるは、事實網は巨視的には整然たる體系を現し、疑ふべからざる存在であるが、微視的には未だ人知を以て闡明すべからざる地盤上に立つものである。之を不安と取り、救濟を企てる積りで、單なる主觀的考察により、手取早い説を爲すものも多いのであるが、唯自他を陶醉するに終るのみである。自然陶醉の效能は認められるが、客觀的事實の説明としては成立覺束ない。故に事實網の考察は飽くまで巨視的に擴張し、微視的に徹底し、古今を通し東西を盡して繼續すべきものである。

      四

 事實網の考察に當り、その對象として登場する最小事實は、萬物を構成する各※[#二の字点、1−2−22]の原子であり、最大事實は萬物を包含する宇宙である。この兩極端の事物は知識の極まるところにして、量的増減を拒否するのみか、古來種々の意味に於て絶對性を有するものと考へられて來た。然るに近頃學者の到達した見解によれば、原子は昔に考へた如き融通の利かぬ一徹に頑強なものでなく、各※[#二の字点、1−2−22]電氣性を帶びた微粒子若干が集まり、其中の或者は中央の位地に集結し、他の者は恰も之を守る如く遠※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]に圍みながら、絶えず動いてゐる集團的組織である。而して或る原子は内部に不和でもあるかの如く自然に崩壞し、或る原子は外部より作用する暴力を以て、人工的に崩壞せしめ得ることが知られてゐる。即ち原子は永久不變のものでなく、變化の可能性あるのみならず、實際變化しつゝあるのである。又宇宙は昔は無限大とせられながら、不變の大精神の如きものが之を攝理して、其大世帶の機構は突飛の變化なきものと想はれてゐた。然るに近年恆星進化論が出で來り、常に大變化を成しつゝあることが證明せられるに至つたばかりか、所謂我々の宇宙は有限であるとの考も出で、アインシュタインは宇宙の半徑を10[#「10」は縦中横]9[#「9」は指数]光年程度のものと見積り、ハッブルは宇宙の膨脹する實景を觀測することに成功した。即ち我宇宙は無限不動のものではなく、進化發展するものである。
 事實網の兩極端の事實が不變性を失ふに至りたるは、今まで懷抱して來た恆久不易の通念を覆す重大事件である。是は學者の微視觀により明にせられたのであるが、中間事實の變化することは、巨視觀により常識を以て承認することが容易である。若し其所に偶※[#二の字点、1−2−22]不動不變と取られる事實あらば、これは原子の如く所謂安定状態に在るもので、成立に關する事情の掣肘を受け、餘儀なく靜止の状態を維持するまでのことで、何時崩壞するか保證し難いものである。即ち靜止は變化の一過程に過ぎないのである。茲に於て何が故に變化するかの問題は別として、事實網全體を事實として變化することが明にされた。思へば昔科學精神の幼稚な時代に諸行無常を説いた釋迦や萬物流轉と斷じたヘラクレイトスは驚くべき洞察を爲したものである。
 事實の存在するも變化するも、其儘事實であるから、それで差支ないと取る見方は、唯物論的、機械觀的或は決定論的傾向を生じ、何物か之を然らしめるのであると取る見方は、唯心論的、目的論的或は價値觀的傾向を生ずる。孰れの見方を執るも變化の事實を如何ともすることが出來ないのは明である。そこで古今の哲人が巨視的にも微視的にも考察を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]し、到達し得た一致の結論を要約すると、宇宙の隅から隅ま
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