出來ない場合があることが分つて來た。これは吾人の通念を根柢から覆す重大事件である。以上短く説明し易い例を物理現象より選んだのであるが、類似の例證は他の自然現象に於ても目撃することが出來る。そこで普通の意味を考ふれば、物的現象は巨視的には林檎の落ちるに氣が附く如く、馬鹿も知ることが出來るが、微視的には眼にも見えぬ小さいくせに、因果法何物ぞと空嘯く怪物が目の前に群集するを認めざるを得ざる如く、釋迦も手古摺る難物である。物的現象にして既に此の如しとすれば、五官の力を以て捕捉することの出來ない心的現象は、實際手の著け樣もない次第であらねばならぬ。然るに幸に自己は一應の心的經驗を有するが故に、之に準じて他人の場合を類推する便宜もあれば、巨視的に理解することの出來る場合は少くない。しかしながら微視的には往々五里霧中に彷徨する如き感を抱かしめられることあるは止むを得ないのである。一例を申せば、責任と云ふことは、常識の結晶ともいふべき法律の認めるところで、誰でも有ると信ずるが、これは巨視的で立つるところで、更に微視觀を以て何から起つたかと尋ねると、これを説明するため良心とか自由意志とか一層分りにくいものが持出され、進んで天とか神とか到底捕捉し難いものに飛着く藝當を強られ、遂に誤認や信仰の八幡知らずに陷入するのである。
 茲に至り吾人の知るを得たるは、事實網は巨視的には整然たる體系を現し、疑ふべからざる存在であるが、微視的には未だ人知を以て闡明すべからざる地盤上に立つものである。之を不安と取り、救濟を企てる積りで、單なる主觀的考察により、手取早い説を爲すものも多いのであるが、唯自他を陶醉するに終るのみである。自然陶醉の效能は認められるが、客觀的事實の説明としては成立覺束ない。故に事實網の考察は飽くまで巨視的に擴張し、微視的に徹底し、古今を通し東西を盡して繼續すべきものである。

      四

 事實網の考察に當り、その對象として登場する最小事實は、萬物を構成する各※[#二の字点、1−2−22]の原子であり、最大事實は萬物を包含する宇宙である。この兩極端の事物は知識の極まるところにして、量的増減を拒否するのみか、古來種々の意味に於て絶對性を有するものと考へられて來た。然るに近頃學者の到達した見解によれば、原子は昔に考へた如き融通の利かぬ一徹に頑強なものでなく、各※[#二の字点、1−
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