しかし今更敷衍を試みるまでもなく、其所に語つた歴史と此所に辿着いた歴史と全く同一のものと解して何等の矛盾を生じないことを察知すべきである。この同一を知ることにより、歴史は如何なるものであるかを突止め把握し得たとすべきであらう。
六
歴史の概念に到達したところで、最早餘談を試みる必要もない譯であるが、今やそれが單に記録であると知れたので、讀者或は大山鳴動走鼠一匹の感を爲すものあらば、甚だ遺憾と思ふのであるから、萬一の誤解を驅逐するため、越境の譏を犯して、記録の困難を一瞥して見る。
支那では唐の劉知幾が修史者の資格を説いて、史に才學識の三長ありと語つて以來、歴史の方法を論じた學者も多少あるが、之を近代の西洋及日本史家の組織的な研究に比べると實に云ふに足らない。さうした研究の話は自分の受持と領域を異にするので言及しないが、記録の性質上、根本的困難が附隨することに就いて一言したいのである。
凡そ修史の第一義は眞を傳ふるに在ることは古今東西一致の意見である。此意味で掲※[#「にんべん+奚」、第4水準2−1−74]斯は書いて實録ならざる(書而不實録)を難じ、ギボンは眞實しかも赤裸々無遠慮の眞實(Truth, bare naked unblushing truth.)を表すべきを説き、ランケは現實に在つたまま(wie es eigentlich gewesen)に書くべきを論じた。勿論その通で、眞を書現はすは歴史の使命であるが、書現はす前に觀察することが必要である。扨この觀察は直接の場合に於ても錯覺或は誤斷に陷り、背理を認識し得ないことがある。間接に記憶を辿るとか、報告を頼るやうな場合には眞を離れる危險が加はる。更に最も警戒すべきは欺瞞に引懸ることである。現在此の如き擾亂的原因を考慮せざるを得ないのであるから、過去の歴史に對しては猶更批判の目を離してはならぬ、理想を云へば、一々の事實に客觀的妥當性を要する。即ち證據の附いた事實を確立することが望まれる。この證據附の事實を發見することが第一の困難であり、更に其事實を確保することが第二の困難である。
第一の困難は事實の認識に關するもので、今日は科學の副産物たる寫眞、電信、映畫、ラヂオ、蓄音裝置等を利用して、認識の精確を期することも出來るであらうし、欺瞞に對する何等かの方法も早晩案出されようと想はれるから、現今の
前へ
次へ
全11ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
狩野 亨吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング