たかと云へば、勿論その傾向はあつたが、今日の科學者と比べられる樣な精確なる知識を持つてゐた譯ではない。是を當時の彼に望むのは無理な注文と云はなければなるまい。しかし彼は幸ひにも自然を根本的に理解するに當つて必要缺くべからざる見方に打當てた。即ち彼は自然を處理する骨を悟つたのである。其骨は主觀的とはいへ全く根本的の原則であつたがため、直にそれを自然の癖ととつた、即ち自然の作用であり性質であると思うたのである。此見方を會得すると同時に、今まで彼を惱ましつつあつた思想の盤根錯節は直に消滅してしまつたのであるから、彼は確に自然の妙用を知つたと思うたのである。然らばそは何ものである。曰く互性活眞。
 互性活眞を平易に云へば一切の事物は相對して成立すると云ふ事である。此四字に由て現はさるる宇宙の眞理は、今迄誰も氣付かなかつたと安藤は主張する。彼は更に其眞理を生れながらにして知つて居たとも主張する。これは大きにさうでないと思ふ。先づ第一に生れながらに知つてゐたと云ふのは、人から聞いたり、本で見たりしたのではないと云ふ意味で、赤坊の時から分つてゐたと云ふ意味ではなからう。大方苦心慘憺の結果で相當永くかかつて其所に辿付いたものであるのであらう。尤も最後の瞬間は頓悟でも感悟でもよろしい。次に又誰も知つて居なかつたと云ふ事も、安藤がしかく思つただけで、彼が寡聞のためさう思つたのであらうとして置く。彼は常に吾は無學である[#「吾は無學である」に白丸傍点]、吾に師なし[#「吾に師なし」に白丸傍点]、吾生れながらにして知る[#「吾生れながらにして知る」に白丸傍点]、と云つてゐるが、蓋し正直な告白であらうと思ふからである。しかし眞理とか原則とか云ふものは安藤の食物と同じことで一人の私有すべきものでない。凡そ事相を直觀することにより、或は論理を徹底せしむることにより、誰でも到達することの出來る筈のものである。唯其物を知識の形に代へ、言葉の着物を着せることに巧拙があるために、種々の姿となり或は別物の如く思はるることもあるのである。既に佛教に在ては種々な形で相對性の原理を活用し、時には之を亂用して思想の迷宮を作り、人を煙に捲いてゐるのみか、自らも其迷宮に拘束せられて脱出し兼ねてゐる。哲學では知識の相對性として認められ是又種々な哲學者の基礎觀念に取入れられてゐる。又近頃物理學者は總ゆる現象の根本形式なる
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