春の槍から帰って
板倉勝宣
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)籾《もみ》をひく
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]
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白馬、常念、蝶の真白い山々を背負った穂高村にも春が一ぱいにやってきた。あんずの花が目覚めるように咲いた百姓屋の背景に、白馬岳の姿が薄雲の中に、高くそびえて、雪が日に輝いて谷の陰影が胸のすくほど気持ちよく拝める。
乾いた田圃には、鶏の一群が餌をあさっている。水車の音と籾《もみ》をひく臼の音が春の空気に閉ざされて、平和な気分がいたるところに漲《みなぎ》っていた。
一歩を踏み出して烏川の谷に入ると、もう雪が出てくる。しかし岩はぜの花の香が鼻をつき、駒鳥の声を聞くと、この雪が今にもとけて行きそうに思う。しかしやがて常念の急な谷を登って乗越に出ると、もう春の気持ちは遠く去ってしまう。雪の上に頭だけ出したはい松の上を渡って行くと、小屋の屋根が、やっと雪の上に出ている。夕日は、槍の後に沈もうとして穂高の雪がちょっと光る。寒い風が吹いてきて焚木をきる手がこごえてくる。軒から小屋にはいこんで、雪の穴に火を焚きながら吹雪の一夜を明かすと、春はまったくかげをひそめた。槍沢の小屋の屋根に八尺の雪をはかり、槍沢の恐ろしい雪崩の跡を歩いて、槍のピークへロープとアックスとアイスクリーパーでかじりついた時には、春なのか夏なのか、さっぱり分らなくなった。けれども再び上高地に下りて行くと、柳が芽をふいて、鶯の声がのどかにひびいてきた。温泉に入って、雪から起き上った熊笹と流れに泳ぐイワナを見た時に再び春にあった心地がした。
春の山は、雪が頑張ってはいるけれど、下から命に溢れた力がうごめいているのがわかる。いたるところに力がみちている。空気は澄んで、山は見え過ぎるほど明らかに眺めることができる。夏の山より人くさくないのが何よりすきだ。これからあの辺の春の山歩きについて気のついたことを書いて見る。まず槍のピークについていわねばならない。
槍沢の雪崩は想像以上に恐ろしい。どうしても雪崩の前に行かねば危険でもあるし時間も損をする。
小屋から槍の肩まで、ただ一面の大きなスロープである。急なところとところどころになだらかなところは出てくるけれど、坊主小屋も殺生小屋も大体の見当はついてもはっきりとは判らない。ただ雪の坂なのだから。小屋から坊主とおぼしき辺まで、カンジキで一時間半とみればいい。スキーでもほぼ同じではあるが雪の様子でこの時間は違ってくる。時間を気にしないのならば肩までスキーで登ることができる。ただし一尺ばかり積った雪の下は氷なのだから、上の雪が雪崩れたら、アイスクリーパーの外は役にたたないが、それは恐らく四月末のことであろう。
坊主の辺から肩までは、ひどく急な雪の壁で三方をめぐらされている。眺めているととても登れそうにも思われない。しかし登りだすと、どうにか登れてくる。肩に上ると雪は急に硬くなる。そしていままで大丈夫楽に登れると思った槍の穂が氷でとじられていることが判ってくる。
試みにアックスでステップを切ると金のような氷が飛ぶ。もちろんその上に二寸ぐらいの新雪があった。どうしてもこれからは、ロ−プとアックスとクリーパーものである。これが氷ばかりなら大いに楽なのであるが、岩がところどころに頭を出しているので、ステップが切りにくい。岩と氷のコンクリートである。
五分おきぐらいに、頂上の辺から氷と岩が落ちてくる。これは温度によるのであろうから好天気の日は多いと思う。肩から非常に時間を要する。私は小槍の標高より少し上まで行ったが、それで考えると登り二時間は大丈夫かかると思う。
肩から上下五時間をとっておく必要がある。各自がアックスを持っていなくてはいけない。アイスクリーパーは外国製のものでなければ安心はできない。夏の雪渓に用いるものなら無い方がよかろう。金のような氷に、足駄をはいて歩くようなものだ。下るのに時間もかかるが、ロープを使用しなくてはならない。今年ももう肩に下りるところで一人滑ったが幸いに杖で止った。岩と氷と雪の好きな人は相当に面白いクライミングができるが、命は保証できない。肩から小舎までは、スキーなれば二十分をとっておけば大丈夫である。しかしこれはころぶ時間は入っていない。カンジキで一時間ぐらいであろう。
これから以下気づいたことを書いておく。
雪崩。一昨年は三月二十日ごろから入ったが、少しも雪崩れていなかった。今年は約二十日遅れて入って見たら、すべての谷が雪崩れた後であった。年によって違うであろうが三月中に入る方が安全である。
グルンドラヴィーネに会ったら一たまりもない。そして雪崩の季節に入ると荒れた翌日の好天気は危険であるし、雨降り
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