ずかに妄想《もうぞう》をすかしている。
 世にいじらしい物はいくらもあるが、愁歎《しゅうたん》の玉子ほどいじらしい物はない。すでに愁歎と事がきまればいくらか愁歎に区域が出来るが、まだ正真《しょうじん》の愁歎が立ち起らぬその前に、今にそれが起るだろうと想像するほどいやに胸ぐるしいものはない。このような時には涙などもあながち出るとも決ッていず、時には自身の想像でわざと涙をもよおしながら(決して心でそれを好むのではないが)なお涙が出ることを愁歎の種としていろいろに心をくるしめることがある。
 だから母は不動明王と睨めくらで、経文が一句、妄想が一段,経文と妄想とがミドローシァンを争ッている。ところへ外からおとずれたのは居残っていた(この母の言葉を借りて言えば)懶惰者《なまけもの》、不忠者の下男だ。
「誰やらん見知らぬ武士《もののふ》が、ただ一人|従者《ずさ》をもつれず、この家に申すことあるとて来ておじゃる。いかに呼び入れ候《そうろ》うか」
「武士とや。打揃《いでたち》は」
「道服に一腰ざし。むくつけい暴男《あらおとこ》で……戦争《いくさ》を経つろう疵《て》を負うて……」
「聞くも忌まわしい。こ
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