怪しい体であッたが、さてもおれは心つきながら心せなんだ愚かさよ。慰め言を聞かせたがなおもなおおもいわびて脱《ぬ》け出でたよ。ああら由々しや、由々しいことじゃ」
心の水は沸《に》え立ッた。それ朝餉《あさがれい》の竈《かまど》を跡に見て跡を追いに出る庖廚《くりや》の炊婢《みずしめ》。サア鋤を手に取ッたまま尋ねに飛び出す畑の僕《しもべ》。家の中は大騒動。見る間に不動明王の前に燈明《あかし》が点《つ》き、たちまち祈祷《きとう》の声が起る。おおしく見えたがさすがは婦人《おんな》,母は今さら途方にくれた。「なまじいに心せぬ体でなぐさめたのがおれの脱落《ぬかり》よ。さてもあのまま鎌倉までもしは追うて出《い》で行《ゆ》いたか。いかに武芸をひとわたりは心得たとて……この血腥《ちなまぐさ》い世の中に……ただの女の一人身で……ただの少女《おとめ》の一人身で……夜をもいとわず一人身で……」
思えば憎いようで、可哀そうなようで、また悲しいようで、くやしいようで、今日はまた母が昨夜《ゆうべ》の忍藻になり、鳥の声も忍藻の声で誰の顔も忍藻の顔だ。忍藻の部屋へ入ッて見れば忍藻の身の香がするようだし、忍藻の手匣《てばこ》へ眼をとめれば忍藻が側にいるようだ。「胸は騒ぐに何事ぞ。早く大聖威怒王《だいしょういぬおう》の御手にたよりて祈ろうに……発矢《はッし》、祈ろうと心をば賺《すか》してもなおすかし甲斐もなく、心はいとど荒れに荒れて忍藻のことを思い出すよ」心は人の物でない。母の心は母のもの。それで制することが出来ない。目をねむッて気を落ちつけ、一心に陀羅尼経《だらにきょう》を読もうとしても(口の上にばかり声は出るが)、脳の中には感じがない。「有《う》にあらず。無にあらず、動にあらず、静《じょう》にあらず、赤《しゃく》にあらず、白《びゃく》にあらず……」その句も忍藻の身に似ている。
人の顔さえ傍に見えれば母はそれと相談したくなる。それと相談したとて先方が神でもなければ陰陽師《おんようし》でもなく、つまり何もわからぬとは知ッていながらなおそれでもその人と膝《ひざ》を合わせてわが子の身の上を判断したくなる。それでまた例の身贔負,内心の内心の内心に「多分は無難であろうぞ」と思いながら変なもので、またそれを口には出さない。ただそこで先方の答えが自身の考えに似ていれば「実にそう」とは信じぬながら不完全にもそれでわずかに妄想《もうぞう》をすかしている。
世にいじらしい物はいくらもあるが、愁歎《しゅうたん》の玉子ほどいじらしい物はない。すでに愁歎と事がきまればいくらか愁歎に区域が出来るが、まだ正真《しょうじん》の愁歎が立ち起らぬその前に、今にそれが起るだろうと想像するほどいやに胸ぐるしいものはない。このような時には涙などもあながち出るとも決ッていず、時には自身の想像でわざと涙をもよおしながら(決して心でそれを好むのではないが)なお涙が出ることを愁歎の種としていろいろに心をくるしめることがある。
だから母は不動明王と睨めくらで、経文が一句、妄想が一段,経文と妄想とがミドローシァンを争ッている。ところへ外からおとずれたのは居残っていた(この母の言葉を借りて言えば)懶惰者《なまけもの》、不忠者の下男だ。
「誰やらん見知らぬ武士《もののふ》が、ただ一人|従者《ずさ》をもつれず、この家に申すことあるとて来ておじゃる。いかに呼び入れ候《そうろ》うか」
「武士とや。打揃《いでたち》は」
「道服に一腰ざし。むくつけい暴男《あらおとこ》で……戦争《いくさ》を経つろう疵《て》を負うて……」
「聞くも忌まわしい。この最中《もなか》に何とて人に逢う暇《いとま》が……」
一たびは言い放して見たが、思い直せば夫や聟の身の上も気にかかるのでふたたび言葉を更《あらた》めて、
「さばれ、否、呼び入れよ。すこしく問おうこともあれば」
畏《かしこ》まって下男《しもべ》は起って行くと、入り代って入って来たのは三十前後の武士だ。
「御目《おんめ》にかかるは今がはじめて。これは大内|平太《へいだ》とて元は北畠の手の者じゃ。秩父刀禰とはかねてより陣中でしたしゅうした甲斐に、申し残されたことがあって……」
「申し残された」の一言が母の胸には釘《くぎ》であった。
「おおいかに新田の君は愛《め》でとう鎌倉に入りなされたか」
「まだ、さては伝え聞きなさらぬか。堯寛《たかひろ》にあざむかれなされて、あえなくも底の藻屑《もくず》と……矢口で」
「それ、さらば実《まこと》でおじゃるか。それ詐偽《いつわり》ではおじゃらぬか」
「何を……など詐偽《いつわり》でおじゃろうぞ」
よもやと思い固めたことが全く違ッてしまったことゆえ、今さら母も仰天したが、さすがにもはや新田のことよりは夫や聟の身の上が心配の種になッて来た。
「さてはその時
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