ゃ。こう衣《きぬ》は砥粉に塗れてもなかなかにうれしいぞイ、さすれば」
「まことよ。仰せは道理《ことわり》におじゃる。妾《わらわ》とてなど……」
「心からさならこの母もうれしいわ。見よ、のう、この匕首を。門出の時、世良田の刀禰が和女にこを残して再会の記念《かたみ》となされたろうよ。それを見たらよしない、女々しい心は、刀禰に対して出されまい。和女とて一わたりは武芸をも習うたのに、近くは伊賀局《いがのつぼね》なんどを亀鑑《かがみ》となされよ。人の噂《うわさ》にはいろいろの詐偽《いつわり》もまじわるものじゃ。軽々しく信《う》ければ後に悔ゆることもあろうぞ」
 言いきって母は返辞を待皃《まちがお》に忍藻の顔を見つめるので忍藻も仕方なさそうに、挨拶《あいさつ》したが、それもわずかに一言だ。
「さもそうず」
 母もおぼつかない挨拶だと思うような顔つきをしていたがさすがになお強《し》いてとも言いかね、やがてやや傾《かたぶ》いた月を見て、
「夜も更《ふ》けた。さらばおれはこれから看経《かんきん》しょうぞ。和女《おこと》は思いのまにまに寝《い》ねよ」
 忍藻がうなずいて礼をしたので母もそれから座を立って縁側伝いに奥の一間へようよう行ッた。跡に忍藻はただ一人|起《た》ッて行く母の後影を眺《なが》めていたが、しばらくして、こらえこらえた溜息《ためいき》の堰《せき》が一度に切れた。
 話の間だがちょッとここで忍藻の性質や身の上がやや詳細《つまびらか》に述べられなくてはならない。実に忍藻はこの老女の実子で、父親は秩父民部とて前回武蔵野を旅行していた旅人の中の年を取った方だ。そして旅人の若い方はすなわち世良田三郎で、母親の話でも大抵わかるが、忍藻にはすなわち夫だ。
 この三郎の父親は新田義貞の馬の口取りで藤島の合戦の時主君とともに戦死をしてしまい、跡にはその時|二歳《ふたつ》になる孤子《みなしご》の三郎が残っていたので民部もそれを見て不愍《ふびん》に思い、引き取って育てる内に二年の後忍藻が生まれた。ところが三郎は成長するに従って武術にも長《た》けて来て、なかなか見どころのある若者となったので養父母も大きに悦《よろこ》び、そこでそれをついに娘の聟にした。
 その時三郎は十九で忍藻は十七であった。今から見ればあまりな早婚だけれど、昔はそのようなことにはすこしも構わなかった。
 それで若夫婦は仲よく暮していたところが、ふと聞けば新田義興が足利から呼ばれて鎌倉へ入るとの噂があるので血気盛りの三郎は家へ引き籠もって軍《いくさ》の話を素聞きにしていられず、舅《しゅうと》の民部も南朝へは心を傾けていることゆえ、難なく相談が整ってそれから二人は一途《いッしょ》に義興の手に加わろうとて出立し、ついに武蔵野で不思議な危難に遇《あ》ったのだ。その危難にあったことが精密ではないが、薄々は忍藻にも聞えたので、さアそれが忍藻の心配の種になり、母親をつかまえて欝《ふさ》ぎ出すのでそこで前のとおり母親もそれを諭《さと》して励ましていた。
「門前の小僧は習わぬ経を誦《よ》む」鍛冶屋の嫁は次第に鉄の産地を知る。三郎が武術に骨を折るありさまを朝夕見ているのみか、乱世の常とて大抵の者が武芸を収める常習《ならわし》になっているので忍藻も自然太刀や薙刀《なぎなた》のことに手を出して来ると、従って挙動も幾分か雄々しくなった。手首の太いのや眼光《めざし》のするどいのは全くそのためだろう。けれど今あからさまにその性質を言おうなら、なるほど忍藻はかなり武芸に達して、一度などは死にかかっている熊《くま》を生捕りにしたとて毎度自慢が出たから、心も十分|猛々《たけだけ》しいかと言うに全くそうでもない。その雄々しく見えるところはただ時々の身の挙動《こなし》と言葉のありさまにあったばかりで、その婦人に固有の性質は(ことに心の教育のない婦人に固有の性質は)跡を絶ってはいない,たしかになくなってはいない。
 母が立ち去った跡で忍藻は例の匕首《あいくち》を手に取り上げて抜き離し、しばらくは氷の光をみつめてきっとした風情であったが、またその下からすぐに溜息が出た,
「匕首、この匕首……さきにも母上が仰せられたごとくあの刀禰の記念《かたみ》じゃが……さてもこれを見ればいとどなお……そも刀禰たちは鎌倉まで行き着かれたか、無難に。太《いと》う武芸に長《た》けておじゃるから思いやるも女々しけれど……心にかかるは先ほどの人々の浮評《うわさ》よ。狭い胸には持ちかねて母上に言い出づれば、あれほどに心強うおじゃるよ。看経も時によるわ、この分《わ》きがたい最中《もなか》に、何事ぞ、心のどけく。そもこの身の夫のみのお身の上ではなくて現在母上の夫さえもおなじさまでおじゃるのに……さてもさても。武士《もののふ》の妻はかほどのうてはと仰せられてもこの
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