ずかに妄想《もうぞう》をすかしている。
世にいじらしい物はいくらもあるが、愁歎《しゅうたん》の玉子ほどいじらしい物はない。すでに愁歎と事がきまればいくらか愁歎に区域が出来るが、まだ正真《しょうじん》の愁歎が立ち起らぬその前に、今にそれが起るだろうと想像するほどいやに胸ぐるしいものはない。このような時には涙などもあながち出るとも決ッていず、時には自身の想像でわざと涙をもよおしながら(決して心でそれを好むのではないが)なお涙が出ることを愁歎の種としていろいろに心をくるしめることがある。
だから母は不動明王と睨めくらで、経文が一句、妄想が一段,経文と妄想とがミドローシァンを争ッている。ところへ外からおとずれたのは居残っていた(この母の言葉を借りて言えば)懶惰者《なまけもの》、不忠者の下男だ。
「誰やらん見知らぬ武士《もののふ》が、ただ一人|従者《ずさ》をもつれず、この家に申すことあるとて来ておじゃる。いかに呼び入れ候《そうろ》うか」
「武士とや。打揃《いでたち》は」
「道服に一腰ざし。むくつけい暴男《あらおとこ》で……戦争《いくさ》を経つろう疵《て》を負うて……」
「聞くも忌まわしい。この最中《もなか》に何とて人に逢う暇《いとま》が……」
一たびは言い放して見たが、思い直せば夫や聟の身の上も気にかかるのでふたたび言葉を更《あらた》めて、
「さばれ、否、呼び入れよ。すこしく問おうこともあれば」
畏《かしこ》まって下男《しもべ》は起って行くと、入り代って入って来たのは三十前後の武士だ。
「御目《おんめ》にかかるは今がはじめて。これは大内|平太《へいだ》とて元は北畠の手の者じゃ。秩父刀禰とはかねてより陣中でしたしゅうした甲斐に、申し残されたことがあって……」
「申し残された」の一言が母の胸には釘《くぎ》であった。
「おおいかに新田の君は愛《め》でとう鎌倉に入りなされたか」
「まだ、さては伝え聞きなさらぬか。堯寛《たかひろ》にあざむかれなされて、あえなくも底の藻屑《もくず》と……矢口で」
「それ、さらば実《まこと》でおじゃるか。それ詐偽《いつわり》ではおじゃらぬか」
「何を……など詐偽《いつわり》でおじゃろうぞ」
よもやと思い固めたことが全く違ッてしまったことゆえ、今さら母も仰天したが、さすがにもはや新田のことよりは夫や聟の身の上が心配の種になッて来た。
「さてはその時
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