きあり。彼は襄に推服して置かざりしなり。之を聞く承弼は中才の人なりと雖も極めて博聞強記なりしかば襄は屡※[#二の字点、1−2−22]彼に問ふて疑を決する所ありしと。其年輩に於て襄よりも老人なるは即ち太田錦城は十五歳の兄なり、大窪詩仏は十四歳の兄なり。其年襄よりも若きは即ち斎藤拙堂は十八歳の弟也、梁川星巌は九歳の弟也、大塩平八郎は十六歳の弟也。襄と平八郎と交を訂せしは蓋し襄の晩年に在り、当時平八郎年壮にして気鋭、陽明の学を脩《をさ》めて議論風生ず、而して襄は未だ嘗て之と学術を論ぜしことあらざりき。唯杯酒の間に於て交情を温めしのみ。而も彼の烱眼《けいがん》は早くより平八郎の豪傑なるを看取せり。古賀溥卿は嘗て平八郎が江戸に来りしとき恐るべき人物なりとして遇ふことを許さゞりき。二人の眼明かなりと謂つべき也。
 天保元年襄胸痛を患ひしが久ふして癒《い》へたり。此年古賀溥卿其藩侯の為めに絹一幅を寄せて画を求む、襄は故人の求めなりとして之を甘諾する能はざりき。彼は儒者たるを甘んぜざる者なり、何ぞ況《いは》んや詩人文人たるを甘んぜんや。又何ぞ画師の如く遇せらるゝを喜ばんや、即ち二絶句を作りて其布に大書し之を返せり、其一に曰く曾謝横[#レ]経弄[#レ]翰儒、寧能余技備[#二]観娯[#一]、胸中書本猶堪[#レ]献、彷彿※[#「幽」の「幺」に代えて「豬のへん」、第4水準2−89−4]鳳七月国、顴高く眉|蹙《ちゞ》まれる老人は其眼を光らせて筆を揮《ふる》へり。彼時に五十一、英気堂々|猶《なほ》屈する所なき也。而して健康は彼の雄心に伴はず、病は突然彼をして永く黙せしめたり。
 東山六六峰何処、雲鎖[#二]泉台[#一]惨不[#レ]開、歳在[#二]竜蛇[#一]争脱[#レ]※[#「戸の旧字+乙」、283−下−27]、人伝麹蘖遂為[#レ]災、一朝離[#レ]掌双珠泣、五夜看[#レ]巣寡鵠哀、彼此撫来最惆悵、海西有[#レ]母望[#二]児来[#一]。是れ梁川星巌が東海道に於て襄の訃音《ふいん》を聞きて寄せし所なり。其言何ぞ悲しきや。襄は天保三年九月二十三日を以て其の愛妻及び十歳の又二郎と七歳の三木三郎とを残して逝《ゆ》けり。是より前一年長子元協年既に二十、江戸に祗役《しえき》する為めに広島より至り、襄と京師に相遇ひ、江戸に至らば新に室を築いて父を迎ふべしと約せり。襄喜んで再び江戸に下り大に其伎倆を試みんことを期せり。三年の春画富士に題して曰く自[#レ]別[#二]芙蓉[#一]三十年、空於[#二]図画[#一]弁[#二]雲煙[#一]、再会盪[#レ]胸当[#レ]有[#レ]日、白頭相照両※[#「白+番」、284−上−7]然と。然れども芙蓉は終に再び日本大詩人の面目を見ることを得ざりき。六月十二日彼は喀血《かくけつ》せり、而して医は其不治なるを告げたり。襄曰く吾上に母あり、志業未だ成らず、たとひ死せざるを得ざるも、猶医療を加ふべしと。彼は母の憂へんことを恐れて往復の書牘《しよとく》必らず自ら筆を把《と》ること常の如くしたりき。而して其晩年の著述たる政記を完成せんことを欲して死する迄眼鏡を着けて潤刪《じゆんさん》に怠らざりき。彼が通議の内庭篇は実に死するに先《さきだ》つ三日蓐を蹴て起ち草せし所なりき。思ふに松平定信は実に幕府後宮の譖《そしり》に因りて将軍補佐の任を罷《や》むるに至れり、目前の事斯の如し。彼が此篇ありし所以決して偶然ならざる也。而して其文整々堂々格律森厳|毫《がう》も老憊の態なし。其精力過絶なること斯の如し。而も彼は終に眠れり。
 彼が遺物として日本に与へたるものは即ち外史二十二巻、政記十五巻、通議二巻、日本楽府一巻、其他文集詩鈔の類となす。彼が生涯の梗概は吾人既に之を掲《かゝげ》たり。要するに彼は漢学者なり、然れども彼は日本人なり。彼は日本人として日本の英雄を詠ぜり。日本人として日本の歴史を書けり、彼は感情に於て歴史的なり。此故に王朝の盛時を追懐しては現時の式微を歎じ、寛永の士風を追懐しては近世の軽薄を詈《のゝし》り、楠公の為めに慷慨の涙をそゝぎ、北条氏の専権に切歯せり。然れ共彼は又智識に於て歴史的なり。彼は革命に与《くみ》する者に非ず、哲学的の理想を有するものに非ず、此故に彼は物徂徠の如く想考的の政論を為す能はず。時勢と事情との二つは常に彼の立論の根拠たりし。思ふに彼をして安政文久の際に在らしむるも彼は決して純乎たる王政復古論を唱へ得るものに非ず。必らず島津斉彬《しまづなりあきら》氏一流の見に同じく先づ公武合体論を為して時の宜きに通ぜしめんと欲するに過ぎざらんか。然も彼に因りて日本人は祖国の歴史を知れり。日本人は日本国の何物たるかを知れり。日本国の万国に勝れたる所以を知れり。独り理論的を知れるのみならず詩の如く歌の如き文字を以て之れを教へられたり。後来海警屡※[
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