ばうせん》多し。吾人たとひ好む所に佞する者に非るも彼の為めに冤《ゑん》を解かざるを得ざる也。
 文政二年は赤間関に迎へられたり。広島に帰り母を奉じ京師に入り西遊の行を終り更に母を伴ふて嵐山に遊び奈良芳野の勝を訪ひ侍輿百里度[#二]※[#「山+隣のつくり」、第4水準2−8−66]※[#「山+旬」、第3水準1−47−74][#一]、花落南山万緑新、筍蕨侑[#レ]杯山館夕、慈顔自有[#二]十分春[#一]の詩あり、終に送りて広島に還る。蓋し彼れ父に報ゆる能はざる所を以て之を母に報いんと欲せし也。是を以て平素の節倹なるにも似ず、母に奉ずる太だ厚かりし。爾来十年屡々広島に往復し母に伴ふて諸方に遊び其笑顔を見るを以て無上の楽とはなしたりき。
 当時山陽外史の名隆々日の上るが如し。文人若し其許可を得れば恰《あたか》も重爵厚俸を得しが如くに喜びたりき。然れども翻《ひるがへ》つて彼の家政を察すれば即ち貧太甚しかりき。文政六年彼れ家を鴨河の岸三本木に買ひ水西荘と称す。所謂山紫水明処なり。然も行て其旧迹を見しものゝ言に因れば一間の茅屋のみ。即ち其見るに足らざる一草舎に佳名を付したるに過ぎざるや知るべきのみ。彼は自ら詩を作りて当時の境遇を序したりき。曰く
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今朝風日佳、北窓過[#二]新雨[#一]、謝[#レ]客開[#二]吾秩[#一]、山妻来有[#レ]叙、無[#レ]禄須[#二]衆眷[#一]、八口豈独処、輪鞅不[#レ]到[#レ]門、饑寒恐自取、願少退[#二]其鋭[#一]、応接雑[#二]媚※[#「女+無」、第4水準2−5−80][#一]、吾病誰※[#「金+乏」、282−下−25]鍼、吾骨天賦予、不[#レ]然父母国、何必解[#二]珪※[#「王+且」、282−下−25][#一]、今而勉齷齪、無[#三]乃欺[#二]君父[#一]、去矣勿[#レ]聒[#レ]我、方与[#二]古人[#一]語、
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 星巌集を読めば彼も亦屡々貧を歌へり。千古の文人と雖も文学の趣味唯貴族の間にのみ行はれし封建の社会に在つては辛《から》ふじて不覊《ふき》独立の生計を為すを得しのみ。当時文人の運命真に悲しむべし。
 爾《しか》く貧なりと雖も彼の家庭は幸福なるを得し也。彼の妻は彼の死後貞節を以て市尹《しゐん》より褒称《はうしよう》せられし程の人なり、彼も亦其妻に対して極て温情なる夫なりき。彼九州に遊びし時家を憶《おも》ふの詩あり、曰く客蹤乗[#レ]興輙盤桓、筐裡春衣酒暈斑、遙憶香閨燈下夢、先[#レ]吾飛過振鰭山、と。彼は其詩に屡々家庭の消息を泄《も》らせり。而して一も其夫妻相信じ子女|膝下《しつか》を廻る香しき家を想像するの料たらざるはなし。思ふに短気にして剛直なる彼を和らげて大過なからしめ家を治むる清粛にして敢て異言なからしめたるもの小石氏の如きは、名士の婦たるに恥ぢずと謂つべし。
 彼が大納言日野資愛の門に出入し詩酒|徴逐《ちようちく》の会に侍せしは思ふに西遊より帰りし後に在らんか。日野氏は尋常の公卿に非りし也。彼は和漢の学に精通せり。其星巌集の序を読めば彼が多少人才を監識するの才を具せるを見るに足る。然れども襄は臣礼を取りて日野氏に事《つか》へざりき。只賓として友として日野氏と交れり。且曰く魚は琵琶の鮮に非れば喫する能はず、酒は伊丹の醸に非れば飲む能はずと。而して日野氏は善く之を容れて其無礼を尤《とが》めざりき。彼が詩に所謂吾骨天賦予なるものは空言に非る也。
 文政十年母と杏坪翁とを奉じて嵐山に遊び遂に再び奈良芳野に行き更に近江の諸勝を訪ふ。京に還りて菅茶山の病を聞き往て之れを問ふ。会ふに及ばずして卒す。忘年呼[#二]小友[#一]、知己独此翁の詩あり。彼が菅茶山翁遺稿の序に曰く嗚呼吾先友海内数公、既漸凋落、独有[#二]翁在[#一]、猶[#二]碩菓之不[#一レ]食、而今復如[#レ]此、吾将誰望哉、と。秋風落葉を掃《はら》ふが如く名士漸く墓中に入る、多情なる彼は深く人間の恃《たの》むべからざるを感ぜしならん。
 此年将軍家斉軍職に在りて太政大臣を兼ぬ、是れ蓋し史上未曾有の事なり。彦根の城主井伊|直亮《なほすけ》、桑名の城主松平定永は京都に遣《つか》はされて大拝の恩を謝せり。定永は即ち定信の子也、此行定信其臣を襄の家に遣り礼を卑くして外史を求めしむ、定信の賢は襄の稔聞する所なり。襄は喜んで之に応じたり、其知己の義に感ずれば也。後三年を隔てゝ天保元年定信卒す、襄乃ち文を作りて之を祭れり。当時天下第一の賢人は天下第一の文人を知れり。彼が心血の塊たる外史は松平定信に因りて其有用の著なることを証せられたり。彼が宿昔の心事|略《ほゞ》成れりと謂つべき也。
 襄の交遊天下に遍《あまね》し、必しも一々之を記す能はざる也。而して其尤も莫逆《ばくぎやく》なるは即ち篠崎承弼の如
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