|眇々《べう/\》たる一書天下に流伝して王政復古の預言者となり社会の改革を報ずる暁鐘とならんとは。
文化七年の冬襄年三十、備後に行き菅茶山の塾を督す。築山奉盈に与ふる書又曰く去冬此方へ参候一件家長共私へ一向知らせ不[#レ]申間際に相成漸発言仕候、私好み不申事に御坐候へども已に願出の義今更辞退も難仕急に追立られ罷越候、其以来書生の世話無怠仕候へども何分不納得之義に御坐候へばつまらぬ者に御坐候と。然らば則ち彼の備後に行きしや固より其の好む所に非ざりし也。紙上功名添[#二]足蛇[#一]、漫追[#二]老圃[#一]学[#二]桑麻[#一]、野橋分[#レ]径斜通[#レ]市、村塾臨[#レ]流別作[#レ]家、読授[#二]児童[#一]遇[#二]生字[#一]、行沿[#二]籬落[#一]見[#二]狂花[#一]、笑吾故態終無[#レ]已、時復談[#レ]兵書[#二]白沙[#一]。誠に草屋にて馬子牛飼の外は談話する人もなし、回頭故国白雲下、寄[#レ]迹夕陽黄葉村、彼が当時の落莫知るべき也。独り茶山の彼が才を愛して其薄命を憫《あはれ》み誦讐応和以て日を度るあるのみ。彼が菅茶山翁遺稿の序に曰く余読[#レ]書処、与[#二]翁室[#一]隔[#二]水竹[#一]相対、毎[#レ]有[#二]評論[#一]、使[#二]童生※[#「敬/手」、第3水準1−84−92][#レ]巻往復[#一]、以[#レ]筆代[#レ]舌、如[#レ]此周歳と。当時の状見るが如し。然れども彼は終に此所に止る能はざりし也。彼が広島に在るや既に都会に住して名を天下に成さんとするの志あり。而して病雀|籠樊《ろうはん》に在り宿志未だ伸びず其備後に遣《おく》られし所以は以て彼が冲霄《ちゆうせう》の志を抑留し漸く之を馴致せんが為めのみ。而も彼れ奚ぞ終に籠中の物ならんや。彼は福山家老の方に詩会に招かるゝとき菅太中の養子のあしらひにて呼棄てにせらるゝに不平なり、妻を迎へよと勧めらるゝに不平なり、出でゝ事ふべしと勧めらるゝに至りて愈不平なり。即ち書を茶山に与へて曰く使襄禽獣、則可、苟亦人也、則何心処之、亦何面目以見[#二]天下之人[#一]乎と。彼は斯の如くにして去て京師に遊べり。時に文化八年年正に三十一。其書懐の詩に曰く聊取[#二]文章[#一]当[#二]結草[#一]、効[#レ]身未[#三]必在[#二]華替[#一]。其歳暮の詩に曰く一出[#二]郷関[#一]歳再除、慈親消息空如何、京城風雪無[#二]人伴[#一]、独剔[#二]寒燈[#一]夜読[#レ]書。
彼が京都に住せしより声名は遽然《きよぜん》として挙がれり。此時に当りて学界の諸老先生漸く黄泉に帰す。文化四年には皆川淇園七十四にて逝《ゆ》き、柴野栗山七十二にて逝き、文化九年には山本北山六十一にて逝き、文化十年には尾藤二洲六十九にて逝く。旧き時勢は旧き人と共に去れり。文界学の新時代は来れり、而して頼襄は実に其代表者となれり。彼が感慨に富める詠史の詩は翼なくして天下に飛べり。彼の豊肉なる字躰は到る処に学ばれたり。竹田陳人が所謂挙世伝播頼家脚都門一様字渾肥といふもの、決して諛辞《ゆじ》に非りし也。彼は斯の如くに天下より景慕せられたり。書生は皆頼氏の門に向つて奔《はし》れり。文運は頼氏に因りて一変せられたり。彼は実に精神世界の帝王となれり。其一言一行は世人の熱心に注意する所となれり。其の言ふ所は輿論となるに足り、其詩賦は一世を鼓舞するに足れるものとなれり。彼が一度大所へ出でゝ当世才俊と呼ばるゝものと勝負を決したしてふ志願は成れり。而して彼は実に天下に敵なきものとして立てり。
文化十年春水年六十八、孫元協を携へて東遊す。茶山之を襄に報ず。襄驚喜淀川を下りて彼等を大阪に迎へ、京都に一屋を借りて歓待旬余弟子をして周旋せしむ。相見ざること数年互に久濶を序す。思ふに春水既に老す、老ひては即ち子を思はざるを得ず。彼たとひ一たびは襄が家学を継承せずして仕籍を脱したることを悲めりと雖も襄の名天下に高きに及んでは即ち亦其老心を慰むる所なきにあらざるべし。吾人は濃情なる父と子が幼孫を傍らに侍せしめて往事を語り悲喜|交※[#二の字点、1−2−22]《こも/″\》至れるの状を想見して彼等の為に祝せずんばあらず。翌年襄始めて帰省し孤枕曾労千里夢、一燈初話五年心の詩あり、爾来《じらい》殆んど年毎に往返す。
文化十二年襄父の病を聞きて再び帰省す。父は死せずして元鼎死す、即ち元協を以て承祖の嗣となす。父の病少しく愈《い》ゆるを以て京に還る、襄が賢妻小石氏を娶《めと》りしは蓋し此前後に在り。此年除夜の詩に曰く為[#レ]客京城五餞[#レ]年、雪声燈影両依然、爺嬢白髪応[#レ]添[#レ]白、説[#二]看吾儂[#一]共不[#レ]眠と。嗚呼爺嬢豈唯白髪を添へしのみならんや。翌年二月襄生徒を集めて荘子を講じつゝありしとき、
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