可[#レ]不[#下]奮発立[#レ]志以答[#二]国恩[#一]、以顕[#中]父母[#上]哉。翌年春水の祗役《しえき》して江戸に在るや、襄屡※[#二の字点、1−2−22]書を広島より寄せて父の消息を問ふ、書中往々其詩を載す。春水が交遊する所の諸儒皆舌を巻きて其|夙才《しゆくさい》を歎ぜり。薩州の儒者赤崎元礼、襄の詩を柴野栗山に示す。栗山は儒服せる豪傑なり、事業を以て自ら任ずる者也。襄後年之を評して曰く奇にして俊と。彼は固より英才を詩文の中に耗《へ》らすことを屑《いさぎよ》しとせざりき。今や友人春水の子俊秀|斯《かく》の如きを見て、彼は曰へり、千秋子あり之を教へて実才を為さしめず乃《すなは》ち詞人たらしめんと欲する乎《か》、宜しく先づ史を読んで古今の事を知らしむべし、而して史は綱目より始むべしと。元礼薩に還るとき広島を過ぎ襄に語るに此事を以てす。嗚呼是れ天外より落ち来れる「インスピレーション」たりし也。当時栗山の名が如何計《いかばか》り文学社会に重かりしかを思へば彼の一言が電気の如く少年頼襄をして鼓舞自ら禁ずる能はざらしめたるや知るべきのみ。大なる動機は与へられたり、大なる憤発は生ぜり、彼が後年史学を以て自ら任ずる者|蓋《けだ》し端を此に発す。
 史学なる哉《かな》、史学なるかな、史学は実に当時に於ける思想世界の薬石なり。禅学廃して宋学起り宋学盛んにして陽明学興る。一起一倒要するに性理学の範囲を出でず、抽象し又抽象し推拓し又推拓す、到底一圏を循環するに過ぎず、議論|愈《いよ/\》高くして愈人生に遠かる。斯の如きは当時の儒者が通じて有する所の弊害なり。史学に非んば何ぞ之を済《すく》ふに足らん。曰く唐、曰く宋、或は重厚典雅を崇び、或は清新流麗を崇ぶ、時世の推移と共に変遷ありと雖《いへども》、究竟清風明月を歌ひ神仙隠逸を詠じ放浪自恣なるに過ぎず、絶へて時代の感情を代表し、世道人心の為めに歌ふものあるなし。斯の如きは当時の詩人が通じて有する所の弊害なり、史学に非んば何ぞ之を済ふに足らん。今や二個の岐路は襄の前に横はれり、一は小学近思録の余り多く乾燥せる道なり、一は空詩虚文の余り多く湿潤せる道なり。憐れなる少年よ、爾《なんぢ》若し右に行かば爾の智慧は化石せん。爾若し左に行かば爾の智慧は流れ去らん。只一道の光輝あり、爾をして完全なる線上を歩ましむるに足らん、即ち史学也。
 寛政八年襄
前へ 次へ
全17ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
山路 愛山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング