前を経《へ》、長崎に留連し、天草洋を航して島原に上陸し、熊本に至り、南下して薩摩に入り、大隅より再び肥後に還《かへ》り、更に豊後に行き、筑後河を下り、豊前より再び赤間関に至り、其所にて新年を迎へしが如し。蓋し其足迹の達せざる所唯日向一州あるのみ。九州の名山大川所謂温泉岳、高良山、阿蘇山、霧島山、耶馬渓《やばけい》、筑後河の類皆彼の詩中に入らざるはなし。彼は詩に於ても実際脈なり、其詠ずる所|尽《こと/″\》く取つて以て風土記に代ふべき也。吾人之を徳富蘇峰氏に聞く、其熊本を発する時の詩に大道平々砥不[#レ]如、熊城東去総青蕪、老杉夾[#レ]路無[#二]他樹[#一]、欠処時々見[#二]阿蘇[#一]と曰ふが如きは真に熊本市外の写真と謂つべしと。蘇峰氏は熊本県の人也、其言証とするに足る。蓋し彼と雖も時としては想像より搆造したる詩を作らざりしにはあらざりし。然も其実歴せし状況を見るがまゝに写し出すの伎倆に至つては日本詩人中彼を推して第一となさゞるを得ず。彼の詩は未だ嘗て実地を離るゝ能はざる也。彼は高き理想の中に住するの人に非ず。彼は唯只温情なる多血なる日本国民として日本国民なるが如く見る所を見し儘《まゝ》に聞く所を聞きしまゝに写し出せり。而して自然に吾人をして快読に堪へざらしむ。彼の詩は日本人に衣するに支那の衣裳を以てせしむるものなり。自然に是れ唐に非ず宋に非ず将た又明清に非ず、頼襄の詩也、日本人の詩也。
 長崎は淫風の極めて太甚《はなはだ》しき地なり。襄の彼地に在るや屡々《しば/\》遊里に誘はれたりき。今日と雖も娼閣の壁上往々其旧題を見るといへり。然れ共彼の集に因りて之を察するに彼は喜んで狭斜の遊を為せしものに非りき。彼自ら詩を作りて其所懐を述べて曰く誰疑山谷堕[#二]泥犂[#一]、懶[#レ]学樊川張水嬉、唯使[#三]心膓如[#二]鉄石[#一]、不[#レ]妨筆墨賦[#二]氷肌[#一]。又曰く未[#レ]能[#三]茗椀換[#二]※[#「角+光」、第3水準1−91−91]船[#一]、何復繊腰伴[#二]酔眠[#一]、家有[#三]縞衣侍[#二]吾返[#一]、孤衾如[#レ]水已三年と。彼は喪に在るの間其愛妻とすら衾《きん》を共にせざりし也。如何ぞ独り長崎に於てのみ堕落せんや。況《いは》んや彼の此行固より空嚢《くうなう》たりしをや。古より名士は謗※[#「言+山」、第3水準1−91−94]《
前へ 次へ
全17ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
山路 愛山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング