りし所以《ゆゑん》のもの、決して怪しむに足らず、何となれば渠は選択の時代に生れたればなり。蓋《けだ》し徳川氏天下を平かにせしより、草木の春陽に向つて萌※[#「くさかんむり/出」、第3水準1−90−76]《ばうさつ》するが如く、各種の思想は泰平の揺籃《えうらん》中に育てられたり。久しく禅僧に因りて有《も》たれたる釈氏虚無の道は藤原|惺窩《せいくわ》、林|羅山《らざん》の唱道せる宋儒理気の学に因りて圧倒せられ、王陽明の唯心論は近江聖人中江|藤樹《とうじゆ》に因りて唱《とな》へられ、古文辞派と称する利功主義は荻生徂徠に因りて唱へられ、古学と称する性理学は伊藤仁斎に因りて唱へられ、儒教と神道とを混じたる一種の哲学は山崎闇斎に因て唱へられ、各種各色の議論は恰《あたか》も鼎《かなへ》の沸くが如く沸けり。元禄より享保に至るまで人|各《おの/\》、自己独創の見識を立てんことを競へり。斯の如くにして人心中に伏蔵する思想の礦脈は悉《こと/″\》く穿《うが》ち出されたり。支那二十二朝を通じて顕れたる各種の思想は徳川氏の上半期に於て悉く日本に再現せり。創始の時代は既に過ぐ、今は即ち選択の時代なり。紛々たる諸説より其最も善きものを択んで之に従はざるべからずとは志ある者の夙《つと》に唱導する所なりき。渠は斯る空気の中に※[#「てへん+妻」、277−下−3]息し、柴野栗山、尾藤二洲、古賀精里等と共に宋儒を尊信して学統を一にせんとするの党派を形造りたりき。幕閣が異学の禁を布《し》きたるは寛政元年にして蓋し此党派の輿論を採用せしに過ぎざる也。
春水の名は其二弟春風杏坪と共に此時既に学者間に聞へたりき。彼は朱子派の儒者として端亮方正《たんりやうはうせい》の君子として、殊に善書の人として、其交遊の中に敬せられたりき。彼の未だ出でゝ仕へざるや其朋友等相共に広言して曰く百万石の聘に非《あらず》んば応ぜざるべしと。襄が春水より継承せし血液は此の如く活溌なるものにてありたりき。而して春水の室、即ち襄の母も亦尋常の婦人に非らず、襄が幼時の教育は実に彼女の自ら担当する処なりき。思ふに頼氏二世共に婚姻の幸福を有せり、春水は学識ある妻を有し、襄は貞節なる妻を有す、頼氏何ぞ艶福に富めるや。
烏兎※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々呱々の声は※[#「口+伊」、第4水準2−3−85]唔《いご》の声に化せり、襁褓中
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