云へるが如き冒頭を以て誰れにも読まるゝ如く書かれたる者多かりき。此点に於ては当時の識者は今日の文人に勝《まさ》れりと曰ふべし。文は達意を旨とする者也。最も簡易にして誰れにも通ずるを善しとすとは当時に於て何人も首肯する所なりき。
而して福沢氏の文章は当時より今日に至るまで毫も其躰裁を改めず、何人にも解し易きのみならず、読み去りて一種の味あり。極めて俗なれども厭《あ》くことなく、人をして覚えず巻を終へしむ。夫《か》の蓮如の「御文章」は彼れが理想の文学なりと聞きつれども彼れの文は単に文のみとして論ずるも蓮如に勝ること数等也と云ふべし。
(二)自得する所あり 彼れが文章に斯《かく》の如く一種の味ある所以《ゆゑん》は何ぞや。彼れは其語る所に於て自得する所あれば也。彼れは固より深遠なる哲学を有せざるべし。天地の表彰《シンボル》を通じて神霊を見るが如き超越的《トランセンデンタル》の直覚を有せざるべしと雖《いへど》も、彼れはたしかに人生てふ経験を有せり。彼れは社会、政治、経済、人情を貫通する数条の道理を理会せり。故に之を語るや、即ち自家嚢中の物を出すなり。彼れは飜訳的に語らざる也、代言的に語らざる也、直ちに自家の胸臆《きようおく》を語る、故に其言自ら快聴すべき也。
福沢諭吉君
彼の天職《ミッション》
鳬《けり》短く鶴長し、柳は緑、花は紅、人豈吾と同じうすべけんや。此星の栄は彼の星の栄に異なり。福沢君の天職は日本の人心に実際的応用的の処世術を教ふるに在り。怜悧《れいり》なる商人を作り、敏捷《びんせふ》なる官吏を作り、寛厚にして利に聡《さと》き地主を造るに在り。彼は常に地上を歩めり、彼れは常に尋常人の行く所を行けり。彼は常に平直なる日本人民の模範を作らんとなしつゝあり。
封建破れて、昨夢未だ覚めず。新しき世界に古き精神を逗《とゞ》めたる明治の初年に方《あた》りては、彼の喝破せし此主義が如何に開化党に歓迎せられて守旧党に驚愕せられたるよ。彼は一方には神の如く一方には悪魔の如く眺められたる者は之に因るのみ。然れども駸々《しん/\》たる時勢の潮流は日々に彼れの党派を加へ来りて、天下の幾分は殆んど福沢的に化するに至れり。彼れは其天職を畢《を》へしなり。
彼れは党派の首領のみ、国民の嚮導者には非らず
然れども彼れは一党派の首領のみ、国民の嚮導者《きやうだうしや》には非る也。何となれば、彼れは其一身に於て日本国民が要求する渾《すべ》ての者を代表せざれば也。請ふ見よ、彼れの弟子等が往々にして唯物的(哲学に於てに非ず、実行に於て也)に流るゝを、福沢流の才子と称せらるゝ人物が稍《やゝ》もすれば唯生活を善くするの一事を以て其最終の目的となすことを。
人|若《も》し金を積んで郷里に居り、時に金を散じて人を恵み、橋を架し、道を作り、小恵小善を行ふを以て足れりとせば、福沢君は実に天下最第一の師たらん。然れども世は唯小善の人を以て治むべからず、尋常平凡の人物より成立ちし共和政治は最も卑陋《ひろう》なる者なり。是故に世は英雄崇拝を要す。而して福沢君は之を教へざる也。人は唯善く生活するを以て満足する者に非ず、人の心の深き所には※[#「糸+(囚/皿)」、第3水準1−90−18]袍《をんぱう》に満足せざるものを有す、是故に世は宗教を要す、此故に哲学を要す、而して福沢君は之を教へざる也、是皆天下の最大要求也。而して彼れは冷眼に之を見たり。是れ彼れが一派の餓鬼大将(請《こ》ふ語の不敬を許せ、猶君が所謂楠公権助のごときのみ、悪《あ》しき意味あるに非る也)たるに止りて、国民の大師たる能はざる所以也。
吾人をして正直に曰《い》はしめば、世若し福沢君の説教をのみ聞きたらんには、此世に棲息するに足らざる者也。彼れの宗教は詮じ来れば処世の一術に過ぎず。印度《インド》の古先生が王位を棄て、妻子と絶ちて、樹下石上に露宿しながら伝へたる寂滅の大道も、己れの生血を以て印したる基督《キリスト》の福音も、凡《およ》そ天下の偉人、豪傑が生命を賭して買ひたる真理も、吾人は之を粟米《ぞくべい》麻糸《まし》と同じく唯生活する為の具として見ざるべからず。「天は人の上に人を作らず」てふ訓言は真理の一辺にせよ、之れが為めに最も高き人品は吾人の崇拝すべきものなり。最も偉大なる模範は吾人の畏敬すべきものなりてふ真理の他の一辺を忘却したらんには、吾人は常に碌々たる小人と伍せざるべからず。松島、宮島の美景は美なるが故に保存すべしと説かずして、日本の地は天然の美景に富むが故に、宜《よろ》しく世界の楽園となして、外人の金嚢を振はしむべしと説くに至つては、是れ天然の恩恵なる清風明月も亦|造鉄術《アーツ・ヲフ・マネイ・メーキング》の材料たるのみ。斯《かく》の如きの逼仄《ひつそく》なる天地、是豈人類の生活し得べき所ならんや。
幸にして世は福沢君の弟子のみに非ず、此世は猶未だ全く唯物的、懐疑的、冷笑的の世界に変ぜざる也。
[#地から2字上げ](明治二十六年三月一日―五月七日)
底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「国民新聞」
1893(明治26)年3月1日〜5月7日
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2006年7月3日作成
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