出を促したる時に於て未だ嘗て一度も否と言ひしことは無かりき。彼れはたとひ其日印刷に付せざるべからざる原稿を書きつゝありし時も猶直ちにそれを抛《なげう》つて書斎を出づるを常としたりき。思ふに彼は大抵の事ならば『否』の一語を以て他人の感情を害するに忍びざりしなるべし。透谷の如きは胸中一点の邪気なき醇粋なる可憐児なりきと曰つて可なり。
余は透谷が友人に対して深厚なる同情を傾くるを常としたる人物なりしことの一証として左の事を語らんと欲す。余と透谷に一個の友人ありき。余は彼れの紹介にて始めて透谷と交はりしなり。或時彼れは其職業を失ひたるが為に大に窮せり。然れども武士の子にして而も気性の勝ちたる彼れは誰にも其窮を訴へず、独り自ら苦しみしのみなりき。時に透谷は一夕彼れを訪ひ長話をなして帰れり。其夜透谷は勿論彼れの生計につきて一言も発せざりき。透谷は辞し去れり。彼れは透谷の坐りたる傍《かたは》らに若干《じやくかん》の紙幣が紙に包まれて在りしことを発見せり。而して其紙片には失敬ながら些《いさ》さか友人の窮を救はんとすと云ふ趣意を書きありき。彼れは之を見て感泣したりと云ふ。如何《いか》なる親友にても当面
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