べし、何を苦しんで党派を作らんとするぞ。是も亦談理の弊に非ずや。

     詩形の標準

 新体詩は嘗て一たび秋の芒《すゝき》の如く出でたり、而して今や即ち寂々寞々《せき/\ばく/\》たり。独り湖処子の猶孤城を一隅に支ふるを見るのみ。
 迎ふる時は明月を迎ふるが如く狂し、送る時は悪客を送るが如く忘る。始めや之を尊んで詩界の新潮と曰ひ、後や之を卑《いやし》みて詞壇の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]肋《けいろく》とす、天下何ぞ毀誉《きよ》の掌を反すが如くなる。
 然れども「想」あり此に「形」なきを得ず、新詩形豈|止《や》むべけんや。唯何を以て新体詩の標準となさん乎に至つては未だ適《てき》として依る所なきを見る也。
 今人眼を尊んで耳を尊ばず、唯其形を見て、其声を聞かず、徒に七五、若くは五七にして押韻するのみ。之を誦して児童走卒も亦点頭するの工夫に至ては、乃《すなは》ち漠然として顧みず、詩形を造る唯之を字を読むの眼に訴へて字を知らざる者の耳に訴へず、是豈に今の一大欠点に非ずや。
「坂は照る/\、鈴鹿《すゞか》は曇る、あいの土山雨が降る」読み来つて淡水を飲むが如し、而れども之を誦す
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