ろ低くんば、其国民も亦低からざるを得ず、国民の理想とするところ高くんば其国民も亦高からざるを得ず、故に吾人は英雄を仰がざるべからず、而して其英雄は最大至純の者ならざるべからず。
 吾人《われら》は今|爰《こゝ》に印度の公子とナザレの木匠とを比較せんとする者に非ず、何となれば、斯る議論は「宗教家」として徒らに争論の資を作るが如きものたるのみならず、其生長の年歴さへ、種々の説ありて殆んど神秘時代に属するが如く見ゆる瞿曇《クドン》氏とヲーガスチン帝の時に生れ、タイベリアス帝の時に殺されし、純然歴史上の人物たるイヱス、キリストとを比較せんことは少しく不倫の嫌あればなり、而れども吾人は爰に確乎たる信用を以て、イヱス、キリストの人品は信《まこと》に世界の師範として仰ぐに足るべきものなることを敢言せんとす、思ふにゾロアスタル、釈迦《シャカ》の如き文籍未だ備はらず考証未だ全《まつた》からざる、時代に属する人は之を置く、歴史以後の人、ソクラテスと雖《いへども》、プレトーと雖、孔丘《コウキウ》、老冉《ロウゼン》、荘周《サウシウ》と雖、之をイヱス、キリストに比すれば、光芒|太《はなは》だ減ずるを覚ふ、是余一人の私言に非ず、又「クリスチァン」の偏説にも非ず、歴史を編む者、悉《こと/″\》く之を認む、ルーサーも之を認め、ギボンも之を認め、レナンも亦之を認む、我日本の精神的改革を図る者|焉《いづくん》ぞ目を此《こゝ》に注がざる、吾人は似て非なる者を悪《にく》む、更に名を宗教に借りて実なき者を悪む、聞く獅子の身中に虫ありて獣王だも、猶之が為に殺さると、彼《か》の宗教の名を以て、世に行はるゝ虚礼、空文は奚《いづくん》ぞ基督教の獅身虫に非《あらざら》んや、それ藩籬は以て侵叛を防げども之が為に其室内の玲瓏《れいろう》を遮《さへぎ》るべし、世の所謂神学なるもの、礼式なるもの、或は恐る之れが為に基督の品格を蔽はんことを、而れども仁を啖《くら》ふ者は穀を割らざるべからず、其永々しき祈祷に辟易《へきえき》し、其クド/\しき礼拝に辟易して、其内に存する甘実を味ふ能はずんば、寧《むし》ろ智者の事ならんや、基督嘗て曰へり我は道なり、生命なり、光なりと真個《まこと》に基督教を脩めんとするもの、真個に基督教を攻撃せんとする者、焉ぞ其本に返りて、基督の品格を研究せざる、庶幾《こひねがはく》は以て無益の争論を止むべし。
 
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