家も疑うわけにはゆかない。驚き怒るけれども、機先は既に制せられて居る形である。岐阜の信孝も、勝家の救なくては、如何ともし難いので、長秀を通じて秀吉と和を講じた。秀吉即ち信孝の生母|阪《ばん》氏並に三法師丸を受け取って、和を容れ、山崎に帰陣した。三法師丸は安土城に入れ、清洲の信雄を移り来らしめて後見となした。天正十年十二月の事で、物情|恟々《きょうきょう》たる中に年も暮れて行った。
明くれば天正十一年正月、秀吉、かの滝川一益を伊勢に討つべく、大軍を発した。秀吉としては天下の形勢日々に険悪で、のんびりと京の初春に酔い得ないのであろう。丹羽長秀、柴田勝豊をして勝家に備えしめて後顧の憂を絶ち、弟羽柴秀長、稲葉一徹等を第一軍(二万五千)として、近江甲賀郡|土岐多羅越《ときたらごえ》より、甥三好秀次、中村|一氏《かずうじ》等を第二軍(二万)として大君畑《おぼじ》越より、秀吉自らは第三軍(三万)を率いて安楽越よりして、伊勢に侵入した。この安楽越の時、滝川方で山道を切り崩して置いたので軍馬を通すのに難儀した。ある処では馬の爪半分ほどしか掛らない位であった。そこで馬の口を取るものが一人、尾を取るものが
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