引き退いた。又滝川左近|将監《しょうげん》一益も、武蔵野に於て、北条左京大夫|氏政《うじまさ》と合戦中であったが、忽《たちま》ち媾和して、尾州長島の居城に帰った。更に森勝蔵長勝は、上杉家と争って居たのだが、信濃川中島へ退き松本を経て、美濃に退いて居た。さて最後に、羽柴筑前守秀吉であるが、当時、中国の毛利大膳大夫輝元を攻めて、高松城水攻をやっていたが、京都の凶報が秀吉の陣に達したのは、六月三日|子《ね》の刻であるが、五日の朝まで、信長生害の事を秘して、終《つい》に毛利との媾和に成功した。和成るや飛ぶが如くに馳せ上って、光秀の虚を山崎|宝寺《たからでら》天王山に衝き、光秀をして三日天下のあわれを喫せしめた。この山崎合戦が、まさに、秀吉の天下取りの戦争であった。そして信長の遺した事業に対し、偉大なる発言権を握ったわけだ。勝家以下の諸将が、変に応じて上洛を期したけれども、秀吉の神速なる行動には及ぶべくもなかった。だが、信長の遺児功臣多数が存する以上、すぐ秀吉が天下を取るわけには行かない。遺児の中|何人《なんぴと》をして、信長の跡に据えるかと云うことが大問題であった。さて信長信忠の血を享《う》け
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