一人して通ったが、馬はみな落ちてしまった。ある者が馬の口だけをとり、あとを見ずハイハイと云って引いた処が一匹も落ちなかったと云う。馬は馬なりに信用すればいいものと見える。一益は長島に在って予《あらかじ》め兵を諸所に分ち、塁を堅くして守って居た。秀吉自ら、亀山城に佐治新助を攻めたが、新助よく戦った後ついに屈して長島に退いた。秀吉更に進んで、諸城を陥れんとして居る処に、勝家出馬の飛報を受け取ったのである。伊勢の諸城を厳重に監視せしめて置いて、秀吉は直ちに長浜に馳せ来った。秀吉、勝家決戦の機は遂に到来したのである。
勝家は信孝の急報に接しながら、雪の為に兵を動かす事も出来ずに居たが、雪の溶けるのを待ち切れず、江州椿坂までの山間の雪を人夫をして除かせた。しかし折角《せっかく》取除く一方から、又降り埋もれてその甲斐もなかった。何時までも、それだからと云って、待つわけにもゆかないので、三月七日、先鋒の大将として、佐久間|玄蕃允《げんばのすけ》盛政、従う者は、弟保田安政、佐久間勝政、前田又左衛門尉利家、同子孫四郎利長等を始めとして、徳山五兵衛、金森五郎八長近、佐久間三左右衛門勝重、原彦治郎、不破彦三、総勢八千五百、雪の山路に悩みながら進み、江北木の本辺に着陣した。勝家も直に、軍二万を率いて、内中尾山に着いた。北軍の尖兵は長浜辺まで潜行して、処々に放火した。本陣は内中尾山に置いて、勝家|此処《ここ》に指揮を執り、別所山には前田利家父子、橡谷《とちだに》山には、徳山、金森、林谷《はやしだに》山には不破、中谷山には原、而して佐久間兄弟は行市《ぎょういち》山に、夫々布陣したのである。勝家の軍がこの処まで来て見た時には、既に余吾の湖《うみ》を中心として、秀吉の防備線が張られた後なのである。勝家この線を打破らなければ、南下の志は達せられないわけである。さて勝家南下の報に、長浜まで馳せ上った秀吉は、翌日には総軍三万五千余騎、十三段に分って、堂々|余吾床《よごのしょう》に打向った。先陣羽柴秀政。二陣柴田伊賀守の勢。三陣木村|小隼人《こはやと》、木下将監。四陣前野荘右衛門尉、一柳市助直盛。五陣生駒甚助政勝、小寺《おでら》官兵衛|孝隆《よしたか》、木下勘解由左衛門尉、大塩金右衛門、山内一豊。六陣三好孫七郎秀次、中村孫兵治。七陣羽柴美濃守。八陣筒井順慶、伊藤|掃部助《かもんのすけ》、九陣蜂須賀小六家
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