何気なくそういった時だった。今まで黙って、西と玄白との問答をきいていた良沢が、急に口を挟んだ。
「いや、御両所のお言葉ではござるが、われらの存ずる子細は別じゃ。およそ、紅毛人とは申せ、同じ人間の作った文字書籍が、同じ人間に会得できぬという道理は、さらさらござらぬわ。われらが平生読み書きいたしおる漢字漢語も、またわれら士大夫が実践いたしおる孔孟の教えも、伝来の初めには、只今のオランダの文字同様一切不通のものであったに相違ござらぬわ。それを、われらの遠つ祖《おや》どもが、刻苦いたして、一語半語ずつ理解いたして参ったに相違ござらぬ。遠つ祖どもの苦心があればこそ、二千年この方、幾百億の人々が、その余沢に潤うてござるのじゃ。良沢の志は、そこでござる。われらは、この後に来《きた》る者のためには、彫心|鏤骨《るこつ》の苦しみも、厭い申さぬ覚悟でござる。杉田氏も、お志をお捨てなされないで、お始めなされい。われらは、今年四十九でござるが、倒れるまで、努めてみるつもりでござる」
玄白は、良沢の志をきいて、心から恥じずにはおられなかった。その雄渾な志をきいて、心から恥じずにはおられなかった。彼はこれを自分に対するありがたい忠言だと思わずにはおられなかった。が、彼はあまりに触れられたくない急所に、相手が唐突《だしぬけ》に触れてきたことに、かなりな不快を感ぜずにはおられなかった。こっちが、半分は挨拶かたがたいっていることに、なんの容赦もなく、真剣に向ってきた相手に、ある不快を感ぜずにはおられなかったのである。
二
玄白が、蘭書ターヘルアナトミアを手に入れたのは、それから五日とは経たない頃だった。
玄白の志は、元来オランダ流の医術にあった。彼が蘭語を学びたく思ったのも、それによって療術方薬に関する蘭書を読破したいためであった。
従って、彼はターヘルアナトミアを、ある内通辞から示されると、彼は驚喜の目を瞠《みは》らずにはおられなかった。濃い赤と青とで彩られた、臓腑骨節の精緻な絵図を見ると、彼はそこに人体についてのすべての秘奥が、解き明かされてあるように思われた。その絵図と絵図との間に走っている、模様のようなオランダの文字は、一字も半字も読めなかったけれども、彼の心は激しい好奇と感激とにみたされずにはいなかった。彼は、心の底からそれに垂涎《すいぜん》した。価は、二十五人扶持の彼にとっては、力に余る三両という大金だった。が、彼は前後の思慮もなかった。懐中していた一朱銀を、手金としてその通辞に渡すと、彼は金策のために、藩邸へ馳《は》せ帰った。
彼が、駆けつけていったのは、家老岡新左衛門の屋敷であった。岡は、かねてから玄白に好意を持っていた。彼は玄白の懇願をきくと、
「それは求めておいて、用立つものか。用立つものならば、価は上より下しおかれるよう取り計らって得させよう」といった。
そう答えられると、玄白も感奮した。
「されば、必ずこうという目当てはござりませねども、是非とも用立つものにしてお目に掛けるでござろう」と、誓わずにはおられなかった。
ちょうど、座に小倉左衛門という男が、居合わした。
「それは、なにとぞ調えて遣わされたい。杉田氏はそれを空しくする人ではござるまい」と、助言してくれた。
ターヘルアナトミアを自分のものにして、玄白は小躍りして欣んだ。
三
三月三日のことであった。玄白は、その日も長崎屋へ出向いていた。将軍家の、オランダ人御覧が昨日|滞《とどこお》りなく終ったので、カピタンを初め、二人の書記役《シキリイバ》、大小の通辞たちも、みなのびのびとした気持になっていたので、会談がいつになく賑わった。とうとうおしまいに、カピタンが珍※[#「酉+它」、第4水準2−90−34]という珍しい酒を出して、皆を饗応した。
その日は、良沢の顔が見えないほか、一座の者は、中川淳庵、小杉玄適、嶺春泰、鳥山松園など、皆医師ばかりであったので、対話は多岐にわたらずして、緊張していた。ことに、書記役《シキリイバ》の一人のバブルは、外科の巧者であったので、皆はバブルを囲んで、貪るように、いろいろな質問を発していた。
ことに、嶺春泰は、刺絡の術を、熱心にきいていた。
春の長い日が暮れて、オランダ人たちが食事のために退《ひ》いたとき、皆は緊張した対話から、ほっとしてわれに返っていた。彼らが急いで帰り支度にかかっている時だった。中川淳庵の私宅から、小者が赤紙の付いた文箱を持って、駆けつけてきた。
淳庵は、その至急を示した文箱を、ちょっと不安な顔付で取り上げたが、中の書状を読んでいるうちに、彼の不安な顔は欣びで崩れてしまった。
「諸君! お欣びなされい! かねての宿願が叶い申したぞ。明日、骨《こつ》ヶ原で腑分《ふわけ》がある! 腑分がある!」
彼は、喜悦の声を揚げながら、一座の者にその書状を指し示した。それは、いかにも町奉行|曲淵《まがりぶち》甲斐守の家士、得能万兵衛から、明四日千住骨ヶ原にて、手《しゅ》医師何某が腑分をすることを、内報してきた書状だった。
「腑分が! 腑分が!」
皆は、口々に欣びの声を出した。
淳庵、玄適、玄白など、オランダ流の医術に志すものにとっては、観臓は年来の宿願だった。が、その機会は容易に得られなかったのだ。
ことに、彼らは今日この頃、バブルから、身体内景の有様を新しく聞いていたので、腑分に対する宿望は、更に油が注がれたように燃えていた。
ことに、玄白は腑分ときくと、自分の心が飛揚するのを抑えることができなかった。彼は、ターへルアナトミアを手にして以来、腑分の日を一日千秋の思いで待っていた。彼はターヘルアナトミアの絵図が、古人の諸説とことごとく違っているのを知っておった。彼は、それを実地に照して、一日も早く確めたかったのである。
一座の人々の顔は、欣びに輝いていた。
「それでは、今夜はただちに帰宅して休息いたし、明日《あした》早天に、山谷町出口の茶屋で待ち合わすことにいたそう」
淳庵は、座中を見回していった。一座は、すぐそれに同意した。
その時に、玄白の頭の中に、ふと良沢の顔が浮んだ。彼は、良沢がやはり観臓の希望の切なことを知っていた。一座の誰にも劣らないほど、切なのを知っていた。たとい、良沢がこの席にいあわさずとも、明日の一挙にもらすべき人でないことを感じていた。
が、彼は良沢の名を、気軽に口にすることができなかった。良沢に対する軽い反感のために、たやすく口にすることができなかった。その上、彼の心の一隅には、日頃一座に対して高飛車な、見下《みくだ》したような態度を取っている良沢が大切な企てにもれることを、いい見せしめ[#「見せしめ」に傍点]だと思う心が、かすかではあるが動いていた。
それに、誰もが良沢のことに気がついていない以上、自分が特に注意するにも、当らないと思っていた。
が、一座がそのままに立ち上りそうになると、玄白の心は、だんだん苦しくなっていた。軽い苛責が彼の心を鞭打った。彼は、良沢に対する自分の態度の卑しさに、気づかずにはおられなかった。
彼は、とうとう黙ってはおられなかった。
「前野氏がいる! 前野氏がいる! 前野氏へも、なんとかいたして知らせたいものでござる」
そういったとき、玄白は自分自身、救われたような明るい気持になった。
「おお前野氏がいる! 前野氏のことを、とんと失念いたしていた。前野氏へは、是非一報いたさいで叶わぬことじゃ」
玄適が、すぐそれに応じた。が、他の者はあまり気が乗っているようでもなかった。淳庵はいいわけのようにいった。
「前野氏にも、知らせとうはござるが、前野氏の麹町の住居までは、よほどの道程でござる。もう、初更も過ぎているほどに、知らすべき便《たより》はござらぬ。前野氏には、この次の機《おり》もござろう」
玄白は、もう黙っていようかと思った。自分の心持だけは、これで済んでいる。前野を、是非とも明日の企てに与《あずか》らせねばならぬほどの義理も責任もないと思っていた。が、彼は自分の心の底に、良沢の来ないことを欣ぶような心が潜んでいることに気づいているだけに、そのまま黙っているのが疚《やま》しかった。
「いや知らすべき便《たより》がないとは、限り申さぬ。本石町の木戸|際《ぎわ》には、さだめし辻籠がいることでござろう。手紙を調《しつら》え、辻籠の者に置き捨てにいたさすれば、念がとどかぬことはござるまい」
玄白の考えは、時にとって名案だった。
「それは、天晴《あっぱれ》のお心付きじゃ」
一座の者は、皆それに賛成した。玄適が、すぐ手紙を書きにかかった。
玄白は、自分で良沢を呼びながら、一方それを悔いている心持が動いていないこともなかった。が、ふと自分の持っているターヘルアナトミアのことを考えると、また別な心持が動いた。彼は、その珍書を皆の前で披露するときの、得意な心持を考えた。ことに良沢の前で――いつもそれとなく気圧されているように思う良沢の前で、ターヘルアナトミアを開いて見せる自分の心持を考えてみた。
彼は、やっぱり良沢を呼んで、いいことをしたと思った。
四
三月四日の朝、玄白は寅の二つに近い頃、新大橋の藩邸を出て、浅草橋から蔵前を通って、広小路に出て、馬道から山谷町の出口の茶屋に着いたのは、春の引き明けの薄紫の空に、浅草寺《せんそうじ》の明け六つの鐘が、こうこうと鳴り渡っている頃であった。
茶屋の座敷に上って見ると、もう玄適と良沢とが、朝寒《あささむ》の部屋に火鉢を囲いながら向い合っていた。
麹町平河町に住んでいる良沢が、自分より先へ来ているのを見ると、玄白は心中少なからずおどろかずにはおられなかった。
良沢は、玄白が入ってくるのを見ると、いつになく丁寧に会釈した。
「杉田氏! 昨夜は、貴所《きしょ》の肝煎りで使いを下さったそうで、ありがたく存じおる。お陰で、かような会いがたき企てに与《あずか》り申して、大慶に存じおるところでござる」
そう、真正面から感謝されると、玄白は自分の今までの良沢に対する心持を、心のうちでやや恥しく思わずにはおられなかった。
玄適が、横から口を挟んだ。
「杉田氏! 前野氏は、昨夜から一睡もなされないそうでござる。使いの者が参ったのが、子《ね》に近い頃で、お宅を出られたのが、丑二つ頃じゃと申す。その間《ま》も今日の企てのことを思われると、心が躍るようで、一睡もなされなんだそうでござる」
玄白は、良沢の執心が自分以上に激しいことを知ると、どんな点でも良沢には及ばないといったような、寂しさを感ぜずにはおられなかった。
が、そうした寂しさも、自分が懐中しているターヘルアナトミアのことを考えると、すぐ慰められた。今日の参会にこの珍書を持っている者は自分一人だと思うと、良沢に対するそうした寂しさもすぐ消えてしまった。
そのうちに淳庵が見えた。小半刻ばかり経つ頃に、春泰と良円とが、連れ立ってやってきた。六人の顔が揃うと、打ち連れ立って骨ヶ原に向った。
春の早朝の微風に顔を吹かせながら、六人は興奮してよく喋った。六人とも、中年を越した者ばかりであったけれども、彼らの心持は、期待のために躍っていた。六人の歩調が、いつの間にか早くなっていた。小男の淳庵が、ともすれば遅れがちであった。
玄白は、いつターヘルアナトミアを取り出して、皆に披露しようかと思っていた。彼は、さっき山谷町の茶屋で披露しようと思いながら、ついその時機を得なかった。
骨ヶ原の刑場に近づくと、街道に面した梟木《きょうぼく》の上に、刑死して間もないような老婆の首がかけられていた。その胴体が、今日腑分せられるのだと気がつくと、六人はちょっと不快な感じを懐かずにはおられなかった。
非人|頭《がしら》が、六人を刑場の入口にある与力詰所へ案内した。腑分の準備が整うまで、六人はそこで待たなければならぬのだった。
玄白は、今こそと思いながら、懐《ふところ》のターヘルアナトミアに手をかけようと
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