可奉差上事
一、帯刀ノ者|不残《のこらず》寺院ヘ立退恭順可罷在事
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 十三人に対して、決った処分はいい渡されなかった。が、万之助及び重臣たちが、桑名に帰されずに、四日市の法泉寺に抑留されたように、十三人の敗兵は、鳥取藩士の警護に付されて、四日市の北一里にある海村、羽津の光明寺に幽閉されてしまった。そこからは、海蔵川原の刑場がつい目の先に見えていた。

          二

 桑名藩で、馬回り使番を勤めて、五十石の知行を取っていた新谷《しんたに》格之介も、十三人の中に交っていた。
 彼は、今年二十五歳の青年であった。父が、慶応元年の三月に死んだので、当時二十二になった格之介が跡目を相続した。翌慶応二年の春に、彼は妻のおもとを娶《めと》った。
 新婚の夢|円《まど》かであった格之介は、その夏、不意に京都在番を命ぜられて、数人の同僚と出京して以来、所司代屋敷のお長屋のむさくるしい部屋で、一年半に近い間、満されない月日を送っていた。夜ごとの寝覚めに、本国に残してきた、うら若い妻を思いながら。
 鳥羽伏見で、敵方に錦旗が翻《ひら》めくと同時に、味方の足が浮いていつとなく総崩れとなり、淀の堤を退去したとき、彼はいつの間にか味方の諸隊と離れていた。離れていたというよりも、意識して離れたといってもよかった。彼は、この道を取れば、味方に離れるかもしれぬと思いながらも、田圃の中の小道を南へ走ったのである。それが、奈良街道へ出たときも、彼は後悔していなかった。乱軍の場合に、道に迷ったといえば、いい訳は立つ。本隊と一緒に落ちて行けば、薩長の大軍に、西と東とから取り囲まれるに違いない。本国へ退くにも退かれない。激しい切羽詰った戦《いくさ》が、しばしば繰り返されるのに違いない。そう考えると、彼はどうにも、味方の後を追うて行く気がしなかった。
 巨椋《おぐら》の池の堤に出たときは、戦場の銃声も途絶えて、時々思い出したように、大砲《おおづつ》の音がかすかにきこえてくるだけだった。本隊を離れたのを幸いに、道に迷ったといって、本国へ帰って、世の静まるのを待とう。そう考えると、故郷の家庭の有様が、まざまざと目の前に浮んできた。旧臘《きゅうろう》京都を立つ前に、藩の御用飛脚から受け取った妻の消息の文面が、頭のうちに、消しても消しても浮んでくる。それに続いて妻の、初々《ういうい
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