密集部隊であるから馬を入れる隙が無い。引返さんかとして居ると十時伝右衛門内田忠兵衛と名乗って馬を駆け寄せ、槍をもって突崩し五六騎を切って落したとある。名乗った処で相手にはわからないであろうが、やっぱり習慣で名乗ったらしい。兎に角伝右衛門は必死だから、その風《ふう》を見て勢いを得た部下は続いて突入った。明軍は四倍の大勢だから伝右衛門の部隊は忽ちに真中に取囲まれて仕舞った。伝右衛門は総勢を一所に集めて、「敵を間近に引寄せて置いて急に後方に血路を開き、中備の隊まで引取るべし。然る時は敵勢追って来るであろう。我部隊中備と合したならば直ちに取って返し一文字に突破すべし。かくすれば此敵安く追い払う事が出来るぞ」と下知して戦ったが、ついに手負|数多《あまた》で討死した。自分が声明した通りであった。部隊の死傷百余人である。中備小野和泉入替って戦うたが易く破れる気色もない。反《かえ》ってまた危く見えた処に宗茂二千の兵一度に鬨《とき》を挙げて押し寄せた。さしもの明軍も少しく退いたので、宗茂八百を後に固め、あとの軍勢は追撃に移らせたが、此時には既に明軍の後属部隊も到着したから戦は簡単には行かない。池部竜右衛門以下手負死人二百余に及んで居る。折から隆景の先手の兵が来たので宗茂は、一先ず部隊を引まとめて小丸山に息をつぎ、隆景旗下粟屋四郎兵衛|景雄《かげお》、井上五郎兵衛景貞の六千の新手に正面の明軍を譲った。明軍の進撃の有様を書いたものに、
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「敵の人数色黒み備|閑《しず》かにして勢い殊之外《ことのほか》見事也。間近になると拍子を揃え太鼓を鳴らし大筒を打立《うちたて》黒烟を立てて押寄す」
[#ここで字下げ終わり」]
とある。相当なものである。また、
「馬の大きさはけしからず候。男もけしからず大きく候。上方衆(日本軍のこと)もけしからず怪《お》じ入り候也」とある。だから、日本軍も勢い死戦する外はないのである。隆景の先鋒粟屋井上の両人は、両軍を一つに合して当ろうかと相談した。隆景の士、佐世勘兵衛正勝はその儀然るべからずと諫《いさ》めたから、四郎兵衛は左に、五郎兵衛は右に備を立てて対陣し、大筒小筒を打合ったが、四郎兵衛の手の内|三吉《みよし》太郎左衛門元高の旗持が弾に中って倒れた。其他の旗持之を見て騒いだから、明軍望み見て鬨を挙げて攻め押せた。三千の日本軍浮足立ったのを、四郎兵衛馬を左方の高みへ乗上げて下知を下す。粟屋|掃部《かもん》、益田七内、村上八郎左衛門、石原太郎左衛門、鳥越五郎兵衛、河内太郎左衛門等三十四人の勇士、各々槍を取って踏みこたえた。この苦戦の様を見た井上五郎兵衛は高地を下りて援軍しようとすると、佐世勘兵衛また馬の口を控えて云うには、「暫く待ち給え。粟屋勢崩れるであろう」と止める。案の定四郎兵衛の軍は崩れて退き、明軍は湧《わ》く如くに馳せ上って来る。勘兵衛見て、時分はよし蒐《あつま》り給えと云う。即ち井上勢は明軍坂を上ろうとする処へ上からどっと駈け下ったから明軍は忽ちに追い散らされ、粟屋勢も取って返した。時に十時頃である。隆景本陣を望客※[#「山+見」、第3水準1−47−77]《ぼうかくけん》の上に置き馬上戦陣の展開を眺めて居たが、機正に熟すとして、全軍に進撃の命令を下した。小早川秀包、毛利元康、筑紫広門等五千の軍を右廻して明軍の左側面を衝かしめ、小丸山に待機中の立花宗茂三千の軍を左廻りして右側面を襲わしめた。隆景自身、井上粟屋勢の後に続いた。追撃して高陽附近に至る頃明将楊元新手を率いて来り援《すく》った。李如松も之に力を得、部将李如柏、李如梅、李寧等も孰《いず》れも自身剣を執って戦った。しかしこの戦場は水田が多く且つ狭隘である為に、騎兵の多い明軍は自由に馬足をのばす事が出来ず、又密集体形を展開するのにも苦しんだ。日本軍は三方から攻撃を続けるので明軍次第に敗色を現した。如松は始め、恵陰嶺を越え来る時にも、落馬して額を傷つけたが、この乱軍の最中にまた馬から落ちた。井上五郎兵衛望み見て忽ち馬を馳せて将《まさ》に槍を如松に付けようとした。明将李有昇馬を寄せて之を遮り、やっと他の馬に乗せて退かせる事を得たが、有昇自らは弾丸に中って戦死した。李如梅の如きは、金甲の倭《やまと》を手ずから射殺すと云うから、日本軍の一隊長と渡合って之を倒しているわけである。この様に明軍も奮戦したけれどもやがて寒雨到り行動は益々敏活を欠くのに対して、日本軍は左右の高地から十字火を浴せたのでついに支うべくもなくなった。激戦の高潮に達したのは正午頃であるが、間もなく明軍の総退却となり、日本軍は之を恵陰嶺まで追撃した。だが長追は無用と云うので立花の先鋒小野和泉馬を横《よこた》えて日本軍を制し、隆景亦休戦を命令した。京城に凱歌を挙げて帰ったのはその日の暮方で明国朝鮮連合軍の首を斬ること六千余級であると云う。碧蹄館の戦即ちこれである。
さて大敗を喫した李如松は開城に退いて明朝へ上奏文を送ったが、その中に曰く、
「賊兵の都に在る者二十余万衆寡敵せず、且臣|病《やまい》甚し、他人を以て其任に代えんことを請う」と。今でもそうだが、工合が悪くなったから、病気辞職をしようと云うわけだ。
朝鮮の忠臣柳成竜は之を見て、二十万なぞとは嘘だと云うと、「汝が国人がそう告げたのだから、事実は乃公《おれ》の知った事じゃない」と云った。時に兵糧欠乏を告げる者があったが如松は成竜の責任であるとして、之を廷下に跪《ひざまず》かしめ、軍法を以って処分しようと怒った。いやしくも一国の廟臣に対して侮辱もまた甚しいわけである。成竜は大事の前の小事と忍んで陳謝したが、国事のついに茲にまで至った事を思うと、覚えず流涕せざるを得なかったと云う。
愈々《いよいよ》加藤清正咸鏡道より将に平壌を襲わんとして居るとの流言を聞くや、如松はこれをよい口実として、成竜の切願をも斥《しりぞ》けて聞城から平壌へと退いて再び南下しようとはしなかった。
碧蹄戦後に晉州城攻略の戦いがある。朝鮮役の前役即ち文禄の役中に於ては、この二つが最も大きい戦争であった。碧蹄の敗後は、明の意気全く衰えて、間もなく媾和の事がもち上ったのである。日本軍も長い間の戦闘で可なり弱っても居るので、秀吉は一先ず大部隊を帰国せしめた。媾和の交渉は色々曲折があるが、明使、「爾《なんじ》を封《ほう》じて日本国王と為す」の国書を齎《もたら》した為、秀吉を怒らしむることになり、媾和も全く破れて再度の朝鮮出兵が起る。これが慶長の役で、加藤清正の蔚山《うるさん》籠城なぞはこの時の事である。
碧蹄館の戦いの主動者は、小早川隆景と立花宗茂の二人であることはまえの通りであるが、此の時京城の日本軍は糧食尽き、三奉行を初め諸将退却の止むを得ざるを知りながら、口先では強がりを云っていたのである。軍議区々であったが、隆景は病と称して評議の席に出でず、いよいよ糧尽くる頃を見計いて、軍議の席に出て、「日本勢此都にて餓死しても後来日本のお為にはならず、退却こそ然るべし」と云ったので、諸将皆隆景説に一致した。その時隆景又曰く、「と云って、仔細なく此都を引き取るべしと思わるるは不覚なり。明人大勢にて押し寄するを知りて、徒《いたずら》に退く時は逃げたるに当るべし。是非茲は一ト合戦致し退かでは叶わぬ所なり。と云って全軍にて戦わば、大勢退き難からん。明日の合戦は拙者致すべく、その間に人数を繰引《くりひか》せられよ、随分一ト合戦致すべし」と云って、殿《しんが》り戦を引き受けて大勝したのが、碧蹄館の戦である。此の時の隆景の勇姿は摩利支天《まりしてん》の如くであったと云われている。
隆景に賛成したのが宗茂で、相共に奮戦したのである。加藤清正、安辺に在り、日本軍京城の大勝を聞いて、先陣は必ず立花ならんと云ったが、果してそうであった。
この戦いの容子から考えて、日本軍の不統一が分るわけで、京城在城の諸軍隆景と宗茂だけよく日本のために万丈の気を吐いたわけである。
ある日、秀吉が諸大老と朝鮮の事を議しているとき、黒田如水壁越しに、秀吉の耳に入るように放言して曰く、「去年大軍を朝鮮に遣わされしとき、家康か利家か、でなくば軍《いくさ》の道を知りたる拙者を遣わさるれば、軍法定まりて滞りあるまじく、朝鮮人安堵して日本に帰順し、明を征伐せんこと安かるべし。然るを加藤小西|若《ごと》き大将なれば血気の勇のみにて、仕置《しおき》一様ならず、朝鮮の人民日本の|下知《げち》法度を信ぜずして、山林へ逃げかくれ、安堵の思なく、朝鮮の三道荒野となって五穀なし。兵糧を日本より運送するようにては如何で明に入ることを得ん」と。秀吉壁越しに聞き、尤もだと思ったと云うが、まことに朝鮮出兵失敗の根幹を指摘している。
後記
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この物語を作るに際して参照した書物は次の如くである。
天野源右衛門覚書
別名『立花朝鮮記』と云われて居る様に、立花宗茂の戦功を、その部下の源右衛門が書いたものである。
吉野甚五衛門覚書
懲※[#「比/必」、第3水準1−86−43]録《ちょうひろく》
朝鮮の忠臣柳成竜が、八道を蹂躙《じゅうりん》された経過を述べて将来の誡《いましめ》としたもの。
征韓偉略
水戸彰考館総裁川口|長孺《ちょうじゅ》の著で、秀吉の譜、宗氏家記、毛利家記、黒田記略、清正記等各部将の家記を始め、朝鮮の懲※[#「比/必」、第3水準1−86−43]録、明の明史までも参照して簡単ではあるが信頼すべきもの。
堀本朝鮮征伐記
其他
日本戦史朝鮮役
近世日本国民史朝鮮役等
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底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
1987(昭和62)年2月10日第1刷発行
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年9月10日作成
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