ょわ》を呼びて小児を託し、其場に衣を更《か》う。傍に人無きが如くである」この小児と云うのは東征中に淀君が生んだ鶴松の事である。まだほんの赤坊であるが、可愛い息子に外国の音楽を聴かせてやろうとの親心であったであろう。傍若無人はこうした応待の席ばかりでない。朝鮮への国書の中には、「一超直ちに明国へ入り、吾朝の風俗を四百余州に易《か》え、帝都の政化を億万|欺年《しねん》に施すは方寸の中に在り」と書いて居る。朝鮮は宜しく先導の役目を尽すべしと云うのであった。
 朝鮮の王朝では驚いて為す所を知らず、兎も角と云うので、明の政府へ日本|来寇《らいこう》の報知を為したのである。秀吉朝鮮よりの返答を待つが来ない。
 天正十九年八月二十三日、ついに天下に唐入《からいり》即ち明国出兵を発表した。
 兵器船舶の整備を急がせると共に、黒田長政、小西行長、加藤清正をして、肥前松浦郡|名護屋《なごや》に築城せしめ、更に松浦|鎮信《ちんしん》をして壱岐|風本《かざもと》(今勝本)に築かしめた。
 松浦郡は嘗《か》つての神功皇后征韓の遺跡であり、湾内も水深く艦隊を碇泊せしめるに便利であったのである。秀吉は、信長在世中、
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