中国征伐の大将を命ぜられたとき、私は中国などはいらない。日本が一統されたら、朝鮮大明を征服して、そこを頂きましょうと云っていた。
それは、大言壮語してしかも信長の猜疑《さいぎ》を避ける秀吉らしい物云いであったのであるが、そんな事を云っている内に、だんだん自分でもその気になったのか、それとも青年時代からそんな大志があったのか、どちらか分らない。
明けて文禄元年正月、太閤秀吉は海陸の諸隊に命じて出発の期日並びに順序を定めた。一番は小西摂津守行長、松浦法印鎮信以下一万三千、二番加藤|主計頭《かずえのかみ》清正以下二万二千、三番黒田甲斐守長政以下一万一千、更に四番から二十番まで総軍合せて二十八万である。尤も実際に朝鮮に上陸して戦闘に参加したのは十五万内外の人数であった。秀吉が本営名護屋に着いた四月の末頃には、既に行長清正相次いで釜山に敵前上陸し、進んで数城を占領して居る。行長と清正とが一番乗りを争って、清正が勝ったと云う話は伝説である。三番隊以下の後続部隊も日を隔てて次々に上陸した。先鋒の三軍各々路を三つに分ち、京城を目指して進んだが、処々に合戦あるものの、まるで無人の境を行く如しと云ってよい位の勢いであった。
これに対する朝鮮軍の行動であるが、日本軍出動の報が入ると、申※[#「石+立」、第4水準2−82−36]《しんりつ》、李鎰《りいつ》の二人をして辺防の事を司《つかさど》らしめた。申※[#「石+立」、第4水準2−82−36]は京畿、黄海の二道、李鎰は忠清全羅の二道を各々巡視したが、ただ武器を点検する位に止った。申※[#「石+立」、第4水準2−82−36]の如きは眼中に日本軍なく、暴慢で到る処で徒《いたず》らに人を斬って威を示す有様なので、地方官は大いに怖れてその待遇は大臣以上であったと云う。李鎰は尚州の附近に駐屯して居たが、小西行長の先鋒は既に尚州に迫りつつあった。朝鮮軍の斥候はこの事を大将李鎰に報告したが信用しない。反《かえ》って人心を乱す者であるとして斬って仕舞った。その中《うち》に陣の前の林中に怪しい人影が動く。人々どうも日本軍の尖兵ではないかと疑ったが、うっかり云って斬られてもつまらないと誰も口にしない。その内、李鎰自身も怪しく思って騎馬武者を斥候に出すと、忽《たちま》ちに銃声響き、その男は馬から落ちると、首を獲《と》られてしまった。まさしく日本軍である。
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