座りながら、やや不安なる表情にて)兄さん、今帰って来るとな、家《うち》の向う側に年寄の人がいて家の玄関の方をじーと見ているんや。(三人とも不安な顔になる)
賢一郎 うーむ。
新二郎 どんな人だ。
おたね 暗くて、分からなんだけど、背の高い人や。
新二郎 (立って次の間へ行き、窓から覗く)……。
賢一郎 誰かいるかい。
新二郎 いいや、誰もおらん。
[#ここから4字下げ]
(兄弟三人沈黙している)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
母 あの人が家を出たのは盆の三日後であったんや。
賢一郎 おたあさん、昔のことはもういわんようにして下さい。
母 わしも若い時は恨んでいたけども、年が寄るとなんとなしに心が弱うなってきてな。
[#ここから4字下げ]
(四人は黙って、食事をしている。ふいに表の戸がガラッと開く、賢一郎の顔と、母の顔とが最も多く激動を受ける。しかしその激動の内容は著しく違っている)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
男の声 御免!
おたね はい! (しかし彼女も立ち上ろうとはしない)
男の声 おたかはおらんかの?
母 へえ! (吸いつけられるように玄関へ行く、以下声ばかり聞える)
男の声 おたかか!
母の声 まあ! お前さんか、えろう! 変ったのう。
[#ここから4字下げ]
(二人とも涙ぐみたる声を出している)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
男の声 まあ! 丈夫《たっしゃ》で何よりじゃ。子供たちは大きくなったやろうな。
母の声 大きゅうなったとも、もう皆立派な大人じゃ。上ってお見まあせ。
男の声 上ってもええかい。
母の声 ええとも。
[#ここから4字下げ]
(二十年振りに帰れる父宗太郎、憔悴したる有様にて老いたる妻に導かれて室に入り来る、新二郎とおたねとは目をしばたたきながら、父の姿をしみじみ見つめていたが)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
新二郎 お父さんですか、僕が新二郎です。
父 立派な男になったな、お前に別れた時はまだ碌《ろく》に立てもしなかったが……。
おたね お父さん、私がたねです。
父 女の子ということはきいていたが、ええ器量じゃなあ。
母 まあ、お前さん、何から話してええか。子供もこんなに大きゅうなってな、何より結構やと思うとんや。
父 親はなくとも子は育つというが、よういうてあるな、ははははは。
[#ここから4字下げ]
(しかし誰もその笑いに合せようとするものはない。賢一郎は卓に倚《よ》ったまま、下を向いて黙している)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
母 お前さん、賢も新もようでけた子でな。賢はな、二十の年に普通文官いうものが受かるし、新は中学校へ行っとった時に三番と降ったことがないんや。今では二人で六十円も取ってくれるし、おたねはおたねで、こんな器量よしやけに、ええ所から口がかかるしな。
父 そら何より結構なことや。わしも、四、五年前までは、人の二、三十人も連れて、ずうと巡業して回っとったんやけどもな。呉で見世物小屋が丸焼になったために、えらい損害を受けてな。それからは何をしても思わしくないわ。その内に老先《おいさき》が短くなってくる、女房子のいる所が恋しゅうなってうかうかと帰って来たんや。老先の長いこともない者やけに皆よう頼むぜ。(賢一郎を注視して)さあ賢一郎! その杯を一つさしてくれんか、お父さんも近頃はええ酒も飲めんでのう。うん、お前だけは顔に見おぼえがあるわ。(賢一郎応ぜず)
母 さあ、賢や、お父さんが、ああおっしゃるんやけに。さあ、久し振りに親子が会うんじゃけに祝うてな。
[#ここから4字下げ]
(賢一郎応ぜず)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
父 じゃ、新二郎、お前一つ、杯をくれえ。
新二郎 はあ。(杯を取り上げて父にささんとす)
賢一郎 (決然として)止めとけ。さすわけはない。
母 何をいうんや、賢は。
[#ここから4字下げ]
(父親、激しい目にて賢一郎を睨んでいる。新二郎もおたねも下を向いて黙っている)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
賢一郎 (昂然と)僕たちに父親《てておや》があるわけはない。そんなものがあるもんか。
父 (激しき憤怒を抑えながら)なんやと!
賢一郎 (やや冷やかに)俺たちに父親《てておや》があれば、八歳《やっつ》の年に築港からおたあさんに手を引かれて身投げをせいでも済んどる。あの時おたあさんが誤って水の浅い所へ飛び込んだればこそ、助かっている
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング