河原林少尉の姿が見えない。最後の激戦の時、刀を揮って挺身する姿を見たから、或は敵手に陥ったのではないかとの事に、乃木少佐は驚いた。軍旗を失わば何の面目があろう、我は引き返して軍旗を奪還するから、志ある者は我に従えとて、奮然として行こうとするのを、村松曹長、櫟木軍曹等が泣いて諫止した。これが、乃木将軍の西南役に於ける軍旗を奪われた始末である。
 二十三日にも第十四連隊は木葉附近に陣をとり、朝から優勢な薩軍と、銃火を交えた。中央部隊の大隊長、吉松少佐は乃木に向って援兵を乞うた。応援させる兵は無いが、自分がその戦線を代ろうかと乃木が云ったのに対して、吉松少佐は笑ってその必要の無いことを答えたが、間もなく吉松の率いる兵の突撃する声が聞えた。吉松少佐はついに重傷を負って斃《たお》れた。
 この応酬など戦国時代の古武士の風格が偲《しの》ばれる。日が暮れても薩軍の砲撃の少しも衰えない為、乃木はまた退却を決心した。命を下そうとして居る際に、薩軍は大挙して押し寄せた。日暮れである上に雨と硝烟の間敵味方もさだかでないままに相乱れて戦った。乃木の馬が疲れたので、吉松の馬に乗り換えたが、忽ち弾丸が馬に中《あた》って、馬は狂奔して敵中に入ろうとした。幸い、馬が中途で斃れたので、地上に投げ出された。そこを、薩兵つけ入ろうとしたのを、大橋伍長が身を以って防ぎ、摺沢《すりざわ》少尉も返し合せて、身には数弾を受けながら乃木を救った。全隊辛うじて木葉川を渉って、川床で始めて隊伍を整える事が出来た。乃木は、さんざんの苦戦であったのである。
 二十六日早朝、乃木はまた先陣として高瀬に向ったが、再三の敗北を残念に想い、兵を励まして奮闘した。薩軍は高地に拠って居るので味方は甚だ苦戦したが、ついに正面の断崖を攀《よ》じ、安楽寺山を越え更に木葉に至った。その上に前軍は既に田原坂《たばるざか》を占領したとの報がある。勇躍した乃木は後軍の直に続かんことを伝えたが、意外にも三好少将の退却の命に接した。乃木は此地一度失うならば、再び得難い旨を進言した。けれども許されない。止むなく退却したのであったが、もし、此の時田原坂を占領していたならば、田原坂の難戦は起らずに済んだかも知れない。
 薩軍もまた、桐野は山鹿方面から、篠原は田原方面から、羽田は木留《きどめ》方面から、各々高瀬を攻略しようとした。二十七日には、この薩軍は第一旅団の兵が、高瀬川、迫間《せこま》川の流域に要撃して激戦を交えたが、三好少将も右臂《みぎひじ》は弾丸で傷き、官軍|将《まさ》に敗れんとした。野津少将の軍が来り援けた為、形勢は逆転して、高瀬川の南で、薩将西郷小兵衛を殪《たお》すに至った。
 官軍二十七日の戦いに勝ったので、野津三好両少将は、斥候をして迫間川を渉って偵察せしめたが敵影を見ない。いよいよ追撃を決して本軍(近衛一大隊、第十四連隊の一大隊、山砲臼砲各二門)は木葉を通って植木へ、別軍(近衛三中隊鎮台兵三中隊、山砲二、臼砲一)は高瀬から伊倉、吉次越《きちじごえ》を越して熊本を目指すこととなった。官軍の追撃急であり、若しこの一戦に破れれば、熊本包囲の事も水泡に帰するので薩軍は余軍のうち二千余をもって衝背軍に当り、八百余をして熊本城を攻め、其余の兵力は悉くこの守線に動員した。田原坂は特に私学校の精鋭をして守らしめた。薩将また各自に守る処を決し、桐野は山鹿方面を、篠原は田原方面を、村田及熊本隊は木留方面に陣した。野出、太田尾、三ノ嶽、耳取の天険は遙かに田原、山鹿に連絡して、長蛇の横わる如き堅陣は、容易に破り難く見えた。戦備を了《おわ》った官軍は、月が変って三月三日、行動を起した。野津少将は高瀬の第一、第二両旅団をして予定の行軍を起さしめた。本軍が安楽寺村に達すると、稲佐村附近の丘陵に拠った薩軍は猛烈に砲撃した。薩軍は屡々《しばしば》間道から奇兵を出して襲撃したので、官軍は損傷を受けることが多かったが、官軍もさるもの、間道の迂回線に多くの兵を割いて四方から攻撃したので、この塁も陥り、ついに木葉を占領し、更に境木《さかいぎ》を攻略するに至った。この様な山間の戦闘では、間道から敵の側面背面を、急襲するのが有利である。別軍も伊倉を経て吉次越にさしかかると、待ち構えた薩軍は、峠の麓の立岩に在って砲火を開いた。官軍勇を奮って躍進するが、なかなか頑強であって、之を抜く事が出来なかった。その筈である、丁度此処には、薩の勇将、篠原、村田が、頑張って居たのだから。
 この日、両将は木留の本営に居たのであったが、急を聞いて部下三四百を率い、馳せ来って、吉次越の絶頂の凹《へこ》んだ処に木と草とで忽ち速成のバンガローを造って、悠々と尻を落ちつけて、指揮したと云う。最初、篠原が乗り込んで来た時は、官軍の追及急なので、薩兵少しく浮足になって居るのを
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