い。それでよろしいか」と云うに及んで、岩倉は黙し、ついにその事も行われなかった。
此年一月末明治天皇は畝傍《うねび》御参拝の為軍艦に召されて神戸に御着《おんちゃく》、京都にあらせられた。陸軍中将山県有朋は、陛下に供奉《ぐぶ》して西下して居たが、西南の急変を知るや、直ちに奏して東京大阪広島の各鎮台兵に出動を命じた。而して自ら戦略を決定したが、この山県の戦略が官軍勝利の遠因を為したと云ってよい。山県は薩軍の戦略を想定して、
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一、汽船にて直ちに東京或は大阪に入るか
二、長崎及熊本を襲い、九州を鎮圧し後|中原《ちゅうげん》に出るか
三、鹿児島に割拠し、全国の動揺を窺《うかが》った後、時機を見て中央に出るか
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この三つより他に無いと見た。之に対して官軍の方略は、敵がその何《いず》れの策に出づるを顧みず、海陸より鹿児島を攻むるにありとした。更に地方の騒乱を防ぐ為に、各鎮圧をして連絡厳戒せしむる事にした。以上が山県の策戦であるが、山県の想定に対して、薩軍はその第二想定の如く堂々の正攻法に拠《よ》ったのであった。
薩軍、軍を登《のぼ》する前に隆盛の弟西郷小兵衛が策戦を論じた。曰く「軍を三道に分って、一は熊本を囲み、一は豊前豊後に出でて沿海を制し、一は軍艦に乗じて長崎を襲う」と、云うのだ。処が桐野利秋が反対して、
「堂々たる行軍をしてこそ、天下|風《ふう》を望むであろう。奇兵なぞを用いなくとも、百姓兵共、何事かあらん」と云ったのでそのままになった。小兵衛出でて「薩摩|隼人《はやと》をして快く一死を遂げしめるのは利秋である。また薩摩隼人をして一世を誤まらしむるものも利秋である」と嘆じたと云うが、これは確に、後に至って何人《なんぴと》も想い当った事に違いない。
東京政府の狼狽は非常であった。三条|実美《さねとみ》、伊藤博文等は平和論を主張して居たし、朝廷にても、有栖川宮|熾仁《たるひと》親王を勅使として遣わされようと云う議さえあった。然るに熊本からの報によれば、二十日か二十一日をもって開戦となろうとの事であるので、勅使の議はとり止めとなり、十九日には、征討の詔《みことのり》を下され、熾仁親王を征討総督に任ぜられた。山県参軍は二十五日に博多に着き、征討総督も川村参軍を従わせられて翌日に御着、本営を勝立寺《しょうりゅ
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