、篠原大刀を揮って之を叱した。次いで単身、ゆるやかな足取りで来たのが村田である。薩軍やや元気を恢復したものの、猶《なお》危倶の念が去らないので、村田の姿を見ると、「退却で御座いますか」と問うた者がある。村田嘲笑って曰く、「ひとつ官軍の奴共を、この狭隘の地に引入れて、鏖《みなごろし》にして見せるかな」と。容易に抜く事が出来なかったのも尤である。別府晋介また、別路から、小天《こてん》街道に赴いて海岸線を守ったが、此日、朝の十時から昼の三時に至る間激戦少しも止まず、官薩の死傷相匹敵したと云う。
 それにしても、官軍は境木まで前進することを得て居る。田原坂はもう、この境木の目の前に在る。田原坂の血戦の幕が、切って落されたのは間も無くである。
 当時東京日日の新聞社長であった福地源一郎氏が、従軍記者として、田原坂戦闘の模様を通信して居るのがある。その中に田原坂の要害を報じて、
「……坂は急上りの長坂にて、半腹の屈曲をなし、坂の両側は皆谷にて谷の内の両側は切り崖、樹木茂る。この険の突角の所を撰びて、賊は砲塁を二重にも三重にも構へ、土俵が間に合はぬとて、百姓共が囲み置く粟麦などを俵のまゝ用ひたる程なり」
 大体その険要の地であることが察せられるであろうと思う。
 三月四日に、第一回の田原坂攻撃が始まる。前夜、先ず、山鹿《やまが》南関の間の要衝に兵を派して厳戒せしめた。これは薩軍が迂回して背後を衝くのを慮《おもんぱか》ったからである。而して後、第二旅団の全部と、第一旅団の一部を本軍として、正面から攻撃することになり、第一旅団の残部は二俣《ふたまた》を目指すことになった。本軍の先鋒青木大尉は、率先して進み、第一塁を陥れて勇躍更に坂を上るが、薩軍の弾丸は雨の様に降りそそぎ、午後の三時になっても占領する事が出来ないので退却した。坂の麓で督戦して居た野津少将は、再度の突撃を決意して、将士と共に決死の酒を酌《く》んで鼓舞した。折しも、時ならぬ雷雨が襲って、鬱然たる山峡は益々暗い。天の時なりと考えた少将は、進軍|喇叭《らっぱ》を吹かしめ、突進させた。しかし敵弾雨よりも繁《しげ》しくて、徒《いたず》らに多くの死傷を出すに終った。此時の戦に、谷村計介も戦死したのである。計介は始め、第十三連隊長心得、川村操六少佐の旗下で、熊本籠城の一人であった。殊死して守城するに決心した谷少将は、何とかして守城の方
前へ 次へ
全12ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング