終わり]
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お梶 さあ、お休みなさりませ。あっちへ行ったら、女どもに水なと運ばせましょうわいな。(何気なく去ろうとする)
藤十郎 (瞳がだんだん光って来る。お梶の去るのを、じっと見ていたが、急に思い付いたように後から呼びかける)お梶どの。お梶どの。ちと待たせられい。
お梶 (ちょっと駭いたが、しかし無邪気に)なんぞ御用があってか。(と座る)
藤十郎 (夜具を後へ押しやりながら)ちと、御意《ぎょい》を得たいことがあるほどに、もう少し近く来てたもらぬか。
お梶 (少し不安を感じたるごとく、もじもじし、あまり近よらない。やはり無邪気に)改まってなんの用ぞいのう。おほほほほほ。
藤十郎 (低いけれども、力強い声で)ちと、そなたに聞いてもらいたい子細があるのじゃ。もう少し、近う進んでたもれ。
お梶 藤様《とうさま》としたことが、また真面目な顔をしてなんぞ、てんごうでもいうのじゃろう。(いざり寄りながら)こう進んだが、なんの用ぞいのう。
藤十郎 (全く真面目になって)お梶どの、今日は藤十郎の懺悔《ざんげ》を聴いて下されませぬか。この藤十郎は二十年来、そなたに隠していたことがあるのじゃ。それを今日はぜひにも聴いてもらいたいのじゃ、思い出せば古いことじゃ、そなたが十六で、われらが二十の歳の秋じゃったが、祇園祭の折に、河原の掛小屋で、二人一緒に連舞《つれまい》を舞うたことがあるのを、よもや忘れはしやるまいなあ。(じっとお梶の顔を見詰める)
お梶 (昔を想うごとく、やや恍然として)ほんにあの折はのう。
藤十郎 われらがそなたを見たのは、あの時が初めてじゃ。宮川町の唄女のお梶どのといえば、いかに美しい若女形でも、足元にも及ぶまいと、かねがね人々の噂には聞いていたが、始めて見れば聞きしに勝るそなたの美しさじゃ。器量自慢であったこの藤十郎さえ、そなたと連れて舞うのは、身が退けるほどに、思うたのじゃ……。(じっと、さし俯《うつむ》く)
お梶 (顔を火のごとく赤くしながら、さし俯いて言葉なし)
藤十郎 (必死に緊張しながら)その時からじゃ、そなたを、世にも希なる美しい人じゃと思い染めたのは。
お梶 (さし俯きながら、いよいようなだれて、身体をかすかに、わななかせる)……。
藤十郎 (恋をする男とは、どうしても受取れぬほどの澄んだ冷たい目付きで、顔さえもたげぬ女を、刺し通すほどに鋭く見詰めながら、声だけには、激しい熱情に震えているような響きを持たせて)そなたを見初めた当座は、折があらばいい寄ろうと、始終念じてはいたものの、若衆方の身は、親方の掟が厳しゅうてなあ。寸時も己が心には、委せぬ身体じゃ。ただ心だけは、焼くように思い焦がれても、所詮は機を待つよりほかはないと、思い諦めている内に、二十の声を聞かずに、そなたはこの家の主人、清兵衛どのの思われ人となってしまわれた。その折われらが無念は、今思い出しても、この胸が張り裂くるように、苦しゅうおじゃるわ。(こういいながら、藤十郎は座にも堪えぬげに身悶えをして見せる。が、彼の二つの瞳だけは爛々たる冷たい光を放って、女の息づかいから様子を恐ろしきまでに、見詰めている)
お梶 (やや落着いたごとく、顔を半ば上げる。一旦、蒼ざめ切ってしまった顔が、反動的にだんだん薄赤くなっている。二つの瞳は火のごとく凄じい)……。
藤十郎 (言葉だけは熱情に震えて)人妻になったそなたを、恋い慕うのは、人間の道ではないと心で強う制統しても、止まらぬは凡夫の思いじゃ。そなたの噂をきくにつけ、面影を見るにつけ、二十年のその間、そなたのことを、忘れた日はただ一日もおじゃらぬのじゃ。(彼は舞台上の演技にも、打ち勝つほどの巧みな所作を見せながら、しかも人妻をかき口説く恐怖と不安を交えながら、小鳥のごとく竦《すく》んでいる女の方に詰めよせる)が、この藤十郎も、たとい色好みといわるるとも、人妻に恋しかけるような非道なことはなすまじいと、明暮燃えさかる心を、じっと抑えて来たのじゃが、われらも今年四十五じゃ。人間の定命《じょうみょう》はもう近い。これほどの恋を……二十年来忍びに忍んだこれほどの恋を、この世で一言も打ち明けいで、いつの世誰にか語るべきと、思うにつけても、物狂おしゅうなるまでに、心が乱れ申してかくの有様じゃ。のう、お梶どの、藤十郎をあわれと思召さば、たった一|言《こと》情ある言葉を。なあ! お梶どの。(狂うごとく身悶えしながら、女の近くへ身をすり寄せる。が、瞳だけは刃のように澄み切っている)
お梶 わ……っ。(といったまま泣き伏してしまう)
藤十郎 (泣き伏したお梶を、じっと見詰めている。その唇のあたりは、冷たい表情が浮かんでいる。が、それにも拘らず、声と動作とは、恋に狂うた男に適わしい熱情を持っている)のうお梶どの。そなたは、藤十郎の嘘偽りのない本心を、聴かれて、藤十郎の恋を、あわれと思わぬか。二十年来、忍びに忍んで来た恋を、あわれとは思《おぼ》さぬか。さりとは、強いお人じゃのう。
お梶 (すすり泣くのみにて答えず)……。
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(二人ともおし黙ったままで、しばらくは時刻が移る。灯を慕って来た千鳥の、銀の鋏を使うような声が、手に取るように聞えて来る)
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藤十郎 (自嘲するがごとく、淋しく笑って)これは、いかい粗相を申しました。が、この藤十郎の切ない恋を情《つれ》なくなさるとは、さても気強いお人じゃのう。舞台の上の色事では、日本無双の藤十郎も、そなたにかかっては、たわいものう振られ申したわ。ははははははは。
お梶 (ふと顔を上げる。必死な顔色になる。低い消え入るような声で)それでは藤様、今おっしゃったことは皆本心かいな。
藤十郎 (さすがに必死な蒼白な面をしながら)なんの、てんごうをいうてなるものか。人妻に言寄るからは命を投げ出しての恋じゃ。(浮腰になっている。彼の膝が、微かに震える)
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(必死の覚悟を定めたらしいお梶は、火のような瞳で、男の顔を一目見ると、いきなりそばの絹行灯の灯を、フッと吹き消してしまう。闇のうちに恐ろしい躊躇と沈黙が、二人の間にある。お梶は身体を、わなわな震わせながら、男の近づくのを待っている。藤十郎の目が上ずってしまって、足がかすかに震える。ようやく立ち上るとお梶の方へ歩みよる。お梶必死になるが、藤十郎は、そのそばをするりと通りぬけて、手探りに廊下へ出る)
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お梶 (男の去らんとするに、気が付いて)藤様《とうさま》! 藤様!(と低く呼びながら、追い縋《すが》ろうとする)
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(藤十郎、お梶の追うのに気付いて、背後の障子を閉める。お梶障子に縋り付いたまま身を悶えつつ泣き崩れる。藤十郎やや狼狽しながら、獣のごとく早足に逃げ去る。お梶の泣く声に交じるように千鳥の声が聞える)
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第三場
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第二場より七日ばかり過ぎたる一日。都万太夫座の楽屋。上手に役者たちの部屋部屋の入口が見える。その中でいちばん目立つのは梅鉢の紋の付いた暖簾のかかった藤十郎の部屋である。真ん中に楽屋番の部屋がある。下手に万太夫座の舞台に通ずる出入口がある。浅黄の暖簾が垂れている。あちらの舞台にては幕が開く前と見え、鼓と太鼓と笛の音が継続して聞える。幕が開くと、狂言方や下回りの役者たちが、五、六人左右に忙しく行き交う。楽屋番が、衣裳、腰の物などを、役者の部屋へ運んで行く。
万太夫座の若太夫が、藤十郎の部屋から出てくる。出合頭に頭取と挨拶する。
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頭取 おめでとうござんす。今日も明六つの鐘が鳴るか鳴らぬに、木戸へはいっぱいの客衆でござりまする。
若太夫 めでたいのう。ほんに藤十郎どのじゃ。密夫《みそかお》の身のこなしが、とんとたまらぬと京女郎たちの噂話じゃ。
頭取 これでは、半左衛門の人々も、あいた口が、閉《ふさ》がらぬことでござりましょう。この評判なら百日はおろか二百日でも、打ち続けるは定《じょう》でござりまするのう。
若太夫 なんにしてもめでたいことじゃのう。楽屋中よく気を付けてのう。粗相のないようにのう。こんな大入りの時に限って、火事盗難なぞの過ちがありがちでのう。
頭取 へいへい合点でござりまする。
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(二人左右に別れる。下手の出入口から、丁稚を連れた手代風の男が入って来る)
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手代風の男 (頭取を呼びかけて)ああもしもし。藤十郎様のお部屋はどこでござりまするか。
頭取 どちらからじゃ。お部屋はすぐここじゃが。
手代風の男 四条室町の備前屋の手代でござりまする。
頭取 おお室町の大尽のお使いでござりまするか。さあ! お通りなさりませ。左から二つ目の部屋じゃ。
手代風の男 なるほどな、梅鉢の紋が付いておりますのう。
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(手代風の男、藤十郎の部屋へはいって行く。藤十郎の部屋のすぐ隣から、大経師以春に扮した中村四郎五郎と召使お玉に扮した袖崎源次とが出て来る)
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四郎五郎 (源次の袖を捕えながら、ちょっと所作をして)どうも、お前にじゃれかかるところが、うまく行かぬのでのう。今日は三日目じゃが、まだ形が付かぬでのう。昨日藤十郎どのに、教えを乞うてみると、自分で工夫が肝心じゃと、いわしゃれた。さあ、幕の開く前に、もう一度稽古に付き合うてたもらぬか。
源次 おお安いことじゃ。何度でも付き合おう。藤十郎どのに、工夫を尋ねるといつも、強《きつ》い小言じゃ。みんな自分で工夫せいとはあの方の決まり文句じゃ。
四郎五郎 おお一昨年のことじゃ、山下京右衛門が、江戸へ下る暇《いとま》乞いに藤十郎どのの所へ来て、わがみも其許《そこもと》を万事手本にしたゆえに、芸道もずんと上達しましたといわれると、藤十郎どのはいつものように、ちょっと顔を顰《しか》められたかと思うと、「人の真似をする者は、その真似るものよりは必定劣るものじゃ。そなたも、自分の工夫を専一にいたされよ」とにこりともせずに真っ向からじゃ。あの折の京右衛門どののてれまき方を、思い出すと今でも可笑《おか》しくなるのじゃ。
源次 藤十郎どのから、お小言を食わぬ前に、もう一工夫してみよう。
四郎五郎 (急に芝居の身振りをなし)これさ、どっこいやらぬ。本妻の悋気《りんき》と饂飩《うどん》に胡椒《こしょう》はおさだまり、なんとも存ぜぬ。紫色はおろか、身中《みうち》が、かば茶色になるとても、君ゆえならば厭わぬ。
源次 (応じて芝居の身振りをしながら)どうなりとさしゃんせ。こちゃおさん様にいうほどに。あれおさん様、おさん様。
四郎五郎 (やはり身振りを続けながら)やれやかましいその外おさんわにの口、口のついでに口々。(急に役者に立ち返りながら)どうもここのところが、うまく行かぬのじゃ。
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(芝居茶屋の花車女に案内され、若き町娘下手の入口より入って来る)
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花車女 おお源次さま。ちょうどよいところじゃ、それそれこの間ちょっとお耳に入れた東洞院《とうのとういん》の近江屋のお嬢様でござりまする。
源次 (四郎五郎に、気兼ねをしながら)もう、幕が開《あ》きますほどに、またして下さりませ。
花車女 ほんに情けないことを、いわれますのう。せっかく楽屋まで、来られましたのに、ちょっと言葉なりと交して下さりませ。
源次 (もじもじしながら、娘に対して)ほんに、ようお出でなさりました。
町娘 (同じく恥じらいながら、黙って頭を下げる)
花車女 さあちょっと私の茶屋まで、入らせられませい。ほんのちょっ
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