着を着せてしまうと「さあ、お休みなされませ。彼方《あちら》へ行ったら女どもに、水など運ばせましょうわいな」と、愛想笑いを残して足早に部屋を出ようとした。その刹那《せつな》である。藤十郎の心にある悪魔的な思付がムラムラと湧《わ》いて来た。それは恋ではなかった。それは烈《はげ》しい慾情ではなかった。それは、恐ろしいほど冷めたい理性の思付であった。恋の場合には可なり臆病《おくびょう》であった藤十郎は、あたかも別人のように、先刻の興奮は、丸きり嘘であったかのように、冷静に、
「お梶どの、ちと待たせられい」と、呼び止めた。
「何ぞ、外に御用があってか」と、お梶は無邪気に、振り返った。剃《そ》り落とした眉毛《まゆげ》の後が青々と浮んで見える色白の美顔は、絹行燈《きぬあんどん》の灯影《ほかげ》を浴びて、ほんのりと艶《なま》めかしかった。
「ちと、御意を得たいことがある程に、坐ってたもらぬか」こう云いながら、藤十郎は、心持ち女の方へ膝《ひざ》をすすませた。
 お梶は、藤十郎の息込み方に、少し不安を、感じたのであろう。藤十郎には、余り近寄らないで、其処に置いてある絹行燈の蔭に、踞《うずく》まるように坐った。
「改まって何の用ぞいのうおほほほ」と、何気なく笑いながらも、稍《やや》面映《おもは》ゆげに藤十郎の顔を打ち仰いだ。藤十郎の声音《こわね》は、今までとは打って変って、低いけれども、然《しか》しながら力強い響を持っていた。
「お梶どの。別儀ではござらぬが、この藤十郎は、そなたに二十年来隠していた事がある。それを今宵は是非にも、聴いて貰《もら》いたいのじゃ。思い出せば、古いことじゃが、そなた[#「そなた」に傍点]が十六で、われらが二十《はたち》の秋じゃったが、祇園祭《ぎおんまつり》の折に、河原の掛小屋で二人一緒に、連舞《つれまい》を舞うたことを、よもや忘れはしやるまいなあ。われらが、そなたを見たのは、あの時が初めてじゃ。宮川町のお梶どのと云えば、いかに美しい若女形《わかおやま》でも、足下にも及ぶまいと、兼々《かねがね》人の噂《うわさ》に聴いていたが、そなたの美しさがよもあれ程であろうとは、夢にも思い及ばなかったのじゃ」と、こう云いながら、藤十郎はその大きい眼を半眼に閉じながら、美しかった青春の夢を、うっとりと追うているような眼付をするのであった。

        九

「その時からじ
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