まる。肝腎要《かんじんかなめ》の茂右衛門の行き方が、定《きま》らいでは相手のおさんも、その他の人々もどう動いてよいか、思案の仕様もないことになる。己《おの》が工夫が拙《まず》うては、近松門左が心を砕いた前代未聞の狂言も、あたら京童の笑い草にならぬとも限らない。こう思いながら、藤十郎は胸の中に渦巻いている、もどかしさを抑えながら、一途《いちず》に心をその方へ振り向けようとあせった。
その時である。母屋の方から、とんとんと離座敷を指して来る人の足音が、聞えて来た。
七
折角、さわがしい酒席を逃《のが》れて、求め得た静かな場所で、芸の苦心を凝らそうと思っていた藤十郎は、自分の方へ近づいて来る人の足音を聞いて、心持|眉《まゆ》を顰《しか》めぬ訳には行かなかった。
が、近づいて来る足音の主は、此処《ここ》に藤十郎が居ようなどとは、夢にも気付かないらしく、足早に長い廊下を通り抜けて、この部屋に近づくままに、女性らしい衣《きぬ》ずれの音をさせたかと思うと、会釈もなく部屋の障子を押し開いた。が、其処《そこ》に横たわっていた藤十郎の姿を見ると、吃驚《びっくり》して敷居際《しきいぎわ》に立ち竦《すく》んでしまった。
「あれ、藤《とう》様はここにおわしたのか。これはこれはいかい粗相を」と、云いながら、女は直ぐ障子を閉ざして、去ろうとしたが、又立ち直って、「ほんに、このように冷える処で、そうして御座って、御|風邪《かぜ》など召すとわるい。どれ、私が夜のものをかけて進ぜましょう」と、云いながら、部屋の片隅《かたすみ》の押入から、夜具を取り下ろそうとしている。
藤十郎は、最初足音を聞いた時、召使の者であろうと思ったので、彼は寝そべったまま、起き直ろうとはしなかった。が、それが意外にも、宗清の主人|宗山清兵衛《むねやませいべえ》の女房お梶《かじ》であると知ると、彼は起き上って、一寸《ちょっと》居ずまいを正しながら、
「いやこれは、いかい御雑作じゃのう」と、会釈をした。
お梶は、もう四十に近かったが、宮川町の歌妓《うたいめ》として、若い頃に嬌名《きょうめい》を謳《うた》われた面影が、そっくりと白い細面の顔に、ありありと残っている。浅黄絖《あさぎぬめ》の引《ひき》かえしに折びろうどの帯をしめ、薄色の絹足袋《きぬたび》をはいた年増《としま》姿は、又なく艶《えん》に美しかっ
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