っと押してやりました』
『それはどっちの手で』
『右の手でやりました』
『そのとき、左の手はどうしていたのだ。まさか、左の手を上へぼんやり上げてはいはすまいね。その時の姿勢は、どうだった』
『じつは左の手で女の首を抱えてやりました』
『なるほど。それで、よう物が分かった。それで、いうことに無理がない。だから、早くからいえばよかったのだ。それで、そのことには、少しも無理がない。よう分かった。が、もう一つ分からんことがある。それも一つ考えずに、あっさりいうたら、どうだ。そりゃ、こうこういうわけだったと、あっさりいうたらどうだ。無理のないよう分かるようにいったらどうだ。そら、お前がどうしてこういうことをやったかをついでにいってくれ』
『それは、さっき申した通りです』
『うむ、さっきどんなことをいったかな。もう一遍いってみてくれんか。さっきからたくさんきいたから、勘違いをしておるかも知れん。もう一度、くわしくいってみてくれ』
こういうのは、犯人には事実を自白する機会を作ってやるためです。
『それは、兵に行く前に金でも溜めて、両親を欣ばせようと思っていましたのが、借金はできますし、それにあの女が――』
『そうそう、さっききいたのは、そこだった。そこを一つ考えずにいってくれ、よく世の中には、別れの辛いということがあるが、国へ帰って兵に行くということになると、自然あの女とも別れることになるのだったな』
『実は、かれこれ申し上げていましたが、今まで申し上げたことも、一つですが、もう一つ他のことは、兵にはいるのが嫌だったのです。それで、私が思い詰めて、女に申しますと、女もそれではと申しまして、こういうことになったのです』
『それに相違ないか。この先、お前が違うことをいうと、お前に嫌疑がかかる上に、憎しみもかかり、結局はお前の損になるのだから』
『その通り、決して違いありません』
そう、いい終ると、若者はその顔に絶望の表情を浮べたかと思うと、そのまま崩れるように、仰向けに倒れてしまいました。
彼が、自殺幇助の罪を犯していることが、明らかにされたのです。自殺幇助の罪は、六ヵ月以上七年以下の懲役または禁錮です。若者の尋問が終ると、うまく問い落したというような、職務意識から来る得意さと満足とが私の心のうちに湧いて来るのを、禁ずることができませんでした。ほとんど、一時間に近い、長い尋問のために、疲れ果てて、蒲団に寝かされた後も、苦しそうに肩で息をしている若者を、僕は、猟人がちょうど自分の射落した獲物でも見るような目付で、しばらくはじっと見つめていたのでした。僕の尋問の綾《あや》に、うまく引っかかって、案外容易に、自白してしまった若者に、憫《あわれ》みを感じながら、しかも相手の浅はかさを、蔑《さげす》むような心持さえ動いていたのです。
そのときに、警部が僕に近づいて来て、若者にはきこえないような低声で、
『ちょっとおいで下さい、解剖をやっています』と囁《ささや》きました。
僕は、それをきくと、女の死体のある元の四畳半に帰って行ったのです。さすがに、女の死体は、蒲団の上に、真っすぐに寝かされていました。よれよれに垢じみた綿ネルらしい寝衣を、剥ぎ取られた姿は、前よりももっとみじめな浅ましいものでした。胸のあたりの蒼い瘠せた皮膚には、人間の皮膚らしい弾力が少しも残っていないのです。露わに見えている肋骨や、とげとげしい腕の関節などが、この女の十年の悲惨な生活をまざまざと示しているのでした。また、その身体の下半部に纏《まと》っている腰巻が、一目見た者が思わず顔を背けねばならないほど、ひどいものでした。それは、ネルでしたが、地の桃色が褪せてしまって、ところどころに白い斑《まだら》ができて、それが灰色に汚れているのです。よく、注意して見ると、それは普通の婦人がするように、ネルの上に白木綿を継ぎ足してあるのですが、その白木綿が、鼠色に黒くなっているところへ、迸《ほとばし》った血がかかったため、白木綿のところまでが、ネルの部分と同じように、汚れた桃色に見えていたのです。
女は、見る見るうちに、喉の傷口を剖《あば》かれ、胸から腹部へと、次々に剖《あば》かれて行くのでした。警察医は、鶏の料理をでもするように、馴れ切った冷静な手付きで、肺や心臓や胃腸など一通《ひととお》り見た上で、女に肺尖《はいせん》カタルの痕跡があるといいました。
僕は、死体の解剖を見ているうちに、自分の気持が鉛のように重苦しくなって来るのを感じたのです。女の栄養不良の瘠せ果てた身体は、彼女の過去の苦惨な生活を、何よりも力強く、僕の胸に投げつけるのです。十年もの間、もがいた末に、なおこうした地獄の境目を脱すべき曙光を見出し得ない彼女が、自殺を計るということは、当然過ぎるほど、当然なことのように思われて来たのです。前借といえば、きっと三百円か五百円かの端金《はしたがね》に違いない。そうした金のために、十年の間、心も身体も、めちゃくちゃに嘖《さいな》まれた彼女が、他の手段では、脱し切れない境地を、死をもって脱しようとすることは、もっとも至極のことのように思われたのです。現代の売淫制度の罪悪は、売淫そのものにあるというよりも、こうした世界にまでも、資本主義の毒が漲《みなぎ》っていて、売淫者自身の血や膏《あぶら》が、楼主といったものを、肥しているということです。貧乏な人たちの子女が、わずかな金のために、身を縛られて、楼主といったような連中の餌食になって骨まで舐《しゃぶ》られていることです。そう考えて来ると、そうした犠牲者が、そのどうにもならない境地を、死をもって脱するのは、彼らが、最後の反抗であり唯一の逃路であるように思われて来たのです。
こうした浅ましい身体で、こうしたみじめな服装をして、浅ましい勤めをしているよりも、一思いに自殺する方が、この女に、どれだけ幸福であるかわからないと思ったのです。
そのときに、僕はこの女の自殺を手伝ってやったあの若者のことを考えたのです。この女は、明らかに死を望んでいる、そして死ぬ方が、何よりの解脱である。この女が、自殺しようとしてもがいているときに、ちょっと短刀を持ち添えてやったことが、なぜ犯罪を構成するのだろう。現代の社会のいちばん不当な間隙に、身を挟まれて苦しんでいる彼女が死を考えることに何の無理があるのだろう。また彼女が死んだからといって、何人が損をするというのだろう。楼主が損をするというのか。否、彼は彼女の血と膏とで、もう十分舌鼓を打った後ではないか。我々が、彼女の死を遮《さえぎ》るべき何の口実ももっていないのではないか。またたとえ、彼女の死を遮り止めたところで、彼女を救ってやるいかなる方法があるだろう。それだのに、彼女が死を企てたときに、ちょっとその手伝いをしたあの若者が、何故に罰せられなければならないのだろう。
そのときに、僕はふと、さっき尋問の手段として、若者にいいきかせた自分の言葉を思い出したのです。
『……女が可哀そうじゃないかね。どうせ二人で死んで行くのだもの。女が苦しんでいれば、お前も手をとって力を添えてやるのが人情じゃないか。それが、人間として美しいことじゃないかね』
自分が、手段のためにいったこうした言葉が、力強く僕の胸に跳ね返ってきたのです。あの若者のような場合に、あの若者のような態度に出ることは、何人からも肯定さるべき、自然な人情ではないか。それが、人間として美しいことではないか。それだのに、自分自身死にそこなって苦しがっている彼を、法律は追及して、罰しなければならないのだろうか。
そんなことを、考えていると、僕はさっき、傷に悩んでいる青年を脅《おど》したり賺《すか》したりして問い落して得意になっていた自分の態度が、さもしいように考えられて来たのです、僕の職務的良心が、ともすればぐらぐらに崩れそうになっていたのです。
出張したのは二時頃でしたが、すべての手続きが片づいた頃には、日がとっぷりと暮れていました。僕らは、引き上げようとして、俥が来るのを待っていたときです。臨検中は、私人が二階へ上るのを、一切禁じてあったのですが、もうすべてが終ったので、家人の上るのを許したのです。すると、待ち構えていたようにいちばんに上って来たのは、さっき見かけたこの家のお主婦《かみ》なのです。
僕の顔を見ると、平蜘蛛のように、お辞儀をしながら、そのくせ、額ごしに、冷たい目でじろじろ見ていたかと思うと、いいにくそうに、
『旦那はん。あの指輪《ゆびはめ》、取っても大事おまへんか』と、こういうのです。
『指輪! 指輪が、どうしたのだ』
お主婦は、ちょっと追従笑いをしていましたが、
『へえ。あの子供がはめておりますんで』
僕はそうきいたときに、妙な悪感を感ぜずにはいられなかったのです。
『じゃ、あの死体の指にはいっている指輪を欲しいというのだな』
『へえ! さよで』
僕は、頭から怒鳴りつけてやりたいと思ったのです。が、しかし、検事としての理性が僕の感情を抑えたのです。死体から、指輪を剥ぎ取るということ、それは普通な人情からいえば、どんな債権債務の関係があるにしたところで人間業ではないような恐ろしいことです。けれども、法律的にいえば、それは単に物の位置を移すということに過ぎないのです。
『よろしい』
僕は、そう苦《にが》り切って答えるほかはなかったのです。お主婦は、一人では怖いからといって、刑事に付いてもらって、死体の置いてある部屋の方へ行きました。
お主婦の姿を見送った僕の心は、憤懣とも悲しみとも、憂愁ともつかない、妙な重くるしい、そのくせ張り裂けるような感情で、いっぱいになっていたのです。
普通の人間が死んだ場合は、たとえ息は絶えていても、あたかも生あるもののごとくに、生前以上に尊敬され、待遇されるのに、彼女は――生前もがきにもがいた彼女は、嘖《さいな》まれた上にも嘖まれた彼女は――息が絶えると同時に、物自体のように取り扱われ、身に付けていた最後の粉飾物を、生前彼女を苦しめ抜いた楼主に奪われなければならぬかと思うと、彼女の薄命に対する同情の涙が、僕の目の中に汪然と湧いて来るのを、どうすることもできなかったのです。
お主婦《かみ》は、やがて指輪を抜いてきました。見ると、それは高々八、九円するかしないかの、十四金ぐらいの蒲鉾《かまぼこ》形の指輪なのです。僕はそのときむらむらとして、こんなことをいったのです。
『お前、その指輪を、どうするのだ』
お主婦は、おどおどしながら、
『あの子供に、借金が仰山《ぎょうさん》ありますけに、これでも売って、足しにしようと思うているのです』
『そうか。じゃ、誰かに売るんだな。売るのなら俺に売ってくれんか。何程ぐらいするんだ。十円なら安くないだろう』
『へえへえ。結構どす。けど、何やってこんなものをお買いになるのどす』
『まあ! いい』
そういって、僕はその指輪を買ったのです。
そのとき、ちょうど俥がやって来たのです。僕は、立ち上ると、お主婦が、不思議そうに見ているのもかまわず、錦木の部屋へ入って行ったのです。そしてお主婦から買い取った指輪を、元の瘠せ細った指に入れてやったのです。もう、十一月の半ばであるのに、死体の上に、あせためりんす友禅の単衣《ひとえ》しか掛けてないのが、何だか薄ら寒そうに見えたのです。が、顔だけはまことに、眠るがごとく目を閉じていたのが、そのときの僕には、何よりの心やりでした。
僕は、僕の後から、僕が何をするのだろうと、おずおず見に来たお主婦に叱りつけるようにいったのです。
『いいかい。この指輪は、錦木のものじゃない。俺のものだぞ。もし今度この指輪を取ると、ひどい目にあうのだぞ』
僕は、お主婦《かみ》が何か畏《かしこま》っていっているのを聞き流して、梯子段を降りたのです。
僕は、俥に乗ってから、立会いの警部や刑事の手前、自分の最後の行動が、突飛であったことを後悔したのです。が、後で悔いはしたものの、あの場合の僕は、ああした行動をするような、不思議な興奮に囚《と
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