はないのだからな』
といいながら、肩のところを一つポンと叩くのです。
若者に対する、いたいたしいという同情は、すぐ僕の職業的良心に抑えられていました。僕が、尋問を始めたときには、もう、普通の検事の口調になっていました。僕は、その頃、だんだん被告に対する尋問のこつを覚えて来ていたのです。
『さあ、これから、お前に少しききたいことがあるのだが、お前もな、できたことは仕方がないことだから、何もくよくよ考えずに、男らしくありのままに話してもらいたいのだがなあ。お前も、これほど思い切ったことをやった男だから、思い切って男らしく潔《いさぎよ》く、俺のいうことに答えてくれないかん。いいかい。どうしたといったら、どう取られる、こういったらこう取られるなどということを、腹の中で考えていたらあかん。考えていうと、ウソになる。ウソになると、物のつじつまが合わなくなる。つじつまが合わなくなると、本当のことまでがウソになる。いいかい。だから、お前が俺の合点のいくように、本当にそうかということになると、できたことは仕方がないということになって、結局お前の利益になるんじゃ。だから素直にいった方が、一番かしこいことになるのだからな』
検事でも、予審判事でも、尋問を始める前には、きっとこんな風なことをいうのです。そして、相手の心をのんびりさせておかないと、嘘ばかりいって困るのです。
『どうだい、男らしくいうつもりかい』
こう、念を押しますと、繃帯で首の動かせないその若者は、傷ついた喉から、呻《うめ》くような声を出して、
『男らしく申します。申します』と答えました。が、たいていの被告は、こう答えておきながら、嘘をつくものです。
『女の名前は何というのだい?』
『錦木といいます』
『いつ頃から、通っているのじゃ』
『十月の初めからです』
『じゃ一月にならないのだな。今までに何遍通った』
『今度で六回目です』
『一度いくらずつ金がかかるのじゃ』
『へえ!』若者は、ちょっといい澱《よど》んだが、痛そうに唾を呑み込んでから『六円から十円ぐらいまでかかります』
『お前は工場でいくら貰っているのじゃ』
『日に一円五十銭ぐらい、貰うとります』
『うむ、それでその中から食費だとか風呂代だとか引くと月に何程ぐらい残るんじゃ』
『へえ、十円ぐらい残ります』
『そうか、十円ぐらいしか残らんで、それで月に六遍も遊んで、一度に六、七円ずつも使うと金が足らなくなるわけだな』
『へえい』
『じゃ、何か別な所で金の工面をしたわけだな』
『へえい』
『誰かから、金の工面をしてもろうたわけだな』
『へえい! 友達から二十円ばかり借りました』
『そのほかにないか』
『親から十円借りました』
『うむ。合して三十円だな。そのくらいの借金なら、払えないという借金じゃないな』
『へえい』
『一体、どうしてこんなことをやった』
若者は、しばらく考え込んでいたようでしたが、急に咳き込んで来たかと思うと、泡のような血を口から吐き出しました。気管の傷のために、血が口の中に洩れるのです。
僕は、自分の尋問が、この青年の容体を険悪にしはしないかと思ったので、警察医にききますと、彼は平気な顔をして、
『何! 大丈夫です。どんなことをしたって、命に別条はありません。御心配なくお続け下さい』といいました。
僕は、それに安心して改めて若者にいいました。
『そら、そんな風に考えたら駄目だよ。あっさりいうのだよ、あっさり』
若者は、唇の周囲についた血を鼻紙で拭きながら、
『私は、今年は兵にかかっとりますので、入営するまでには金でも溜めて、両親も欣ばせようと思っていましたのに、こんなことで金は溜りませんし、借金はできるし、それにあの女も可哀そうな女で、国へ一度母親の見舞いに帰りたい帰りたいいうておりましたけれど、帰れんような始末で、いっそ死んでしもうたらという、相談になりましたんで』
『うむ。それで一緒に死ぬ相談をしたのか。しかし借金だといって、わずかばかりの金じゃないか。それに、女がそれほど、国に帰りたいのなら、お前が連れて帰ってやればいいじゃないか。何も遠い所ではなし、鳥取じゃないか』
『へえい! それがそうはいきませんので。まったく』
『そうかね、お前のいうことも、一応もっともに思えるが、ただそれだけで死んだというのは、どうも俺の腑《ふ》に落ちないんだが。考えないで、さっぱりいうてみんか。考えていうと嘘になっていかん』
そういいますと、若者はその蒼白の顔に、ちょっと血の気を湛えながらいいました。
『命を投げ出してやりましたけに、嘘なんか決して申しません』
相手は少し激したが、僕は冷然たる態度をもっていいました。
『そうかね。そんなら、それでいいが、俺にはどうも腑に落ちないんだがね。俺の腑に落ちんということは、つまり話している方のお前の心に、何か蟠《わだかま》りがあるんじゃないかね。こんな時に、本当のことがいえんようじゃ、男として恥じゃないか。何か別にわけがあるんだろう。何か悪いことでもしたんじゃないか』
『いいや、決して悪いことなんか』と、若者は急《せ》き込んで答えると同時に、傷口からまた血が洩れたのでしょう、苦しそうに咳き込みました。僕の心持は、その時もう職業的意識でいっぱいになっていて、青年が苦しがっても、最初ほどの同情は湧きませんでした。そればかりでなく、僕は、相手がかなり執拗なので、尋問の方向を急に変えてみました。
『じゃ、それはそれとしておいて、一体どちらが先にやったのか、お前の方か、それとも女の方か』
『あたしが先へ死ぬといいまして、女が先に短刀を喉へ突き刺してから、今度は畳へ突きさして私にくれました』
『うむ、なるほど、それで一体女はどんな風に突いたんだ』
『それは、あの女が、刃の方を上に向けて、喉へ突き刺すと、血がだらりと流れました』
『その短刀を握った手は、右かい左かい』
『右です』
『そうかい。それからどうした』
『それから、私が短刀を受け取って、一突き刺したのですが、苦しくて苦しくて、私は思わず立ち上ったのです』
『それから』
『私は唸《うな》ったように思います。それから夢中になってしまいました』
『そうか、夢中になったのか、それであの壁に血がかかっているのは、どうしたのだ』
『私が、苦しまぎれに寄りかかったのです』
『それからどうしたのだ』
『気が付きますと、お主婦《かみ》が私の持っている短刀をもぎとっていたのです』
『なるほどね。そういうわけか。あの錦木という女は、えらい女だな。しかし、そりゃお前、嘘じゃないか。その女が、喉を突いたところを、もう一度いってみんか』
同じことを、二度いわせるのが、僕らが尋問の常套手段なのです。被告が嘘をいっていれば、きっとそこにつじつまの合わないところができるのです。が、それにしても、喉に傷を持っている被告に二度同じことを繰り返させることが、かなり残酷のように思われないでもなかったのです。が、その当時、僕の熾烈《しれつ》な職務心は、そんな心をすぐ打ち消したのでした。
それでも、若者は前の陳述と矛盾しないように、同じことを繰り返しました。
『そうかね。その女が、一人でやった! が、お前手伝ってやりはしなかったかね。女が可哀そうじゃないかね。どうせ二人で死んで行くのだもの。女が苦しんでいれば、お前も手をとって力を添えてやるのが人情じゃないか。それが、人間として美しいことじゃないかね。いいか悪いかは別問題として、そうあるべきところじゃないかね』
先刻、女の死体を一目見たときに、僕は女が、どちらかといえば、呼吸器でもが悪いように瘠せた女で、男が陳述するような、勇気がある女とは、どうしても思えなかったのです。僕は、自殺幇助の事実があることを最初から信じていたのです。それに、先刻ちょっと見たときにも、傷口が一刀のもとに見事に突かれていることに気が付いていたのです。
『どうだい。俺には、あの女に、お前がいうほど勇気があるとは、どうしても思えないのだがね。そこが、不思議で堪らないのだがね。どうだい。本当のことをあっさりといってくれんかな。実はお前が、突いてやったのだろう』
若者は明らかに狼狽しながら、
『いえいえ、滅相な滅相な』と打ち消しました。
『じゃ、きくがね。あの女の喉のところに掻き傷があるが、あれはどうしたんだ』
若者は顔が赤くなったかと思うと、黙っていました。
『お前が、一緒に突いてやったのじゃないか』
若者は、首を横に、微かに動かしました。
『じゃ、そんな覚えはないというんだね。女が喉を突くとき、お前の手は女の身体に触れていなかったというのかい』
『いいえ。二人抱き合って』
僕は心のうちで、『しめた!』と叫びました。
『二人抱き合って、うむ。先刻は、そんなことはいわなかったようだね。なるほど、二人抱き合って』
『二人一緒に抱き合って、女が喉を突くと、一緒に転《ころ》げたのです。それで、血が出たから押さえてやろうとしたのです』
『なるほど、お前のいうことは、だんだん本当に近くなってきたじゃないか。が、もう少し本当でなければいかん。もう少しのところだ。もう少し本当にいえばいいのだ』
『それで、女がもがいて、手で喉を掻きむしったのです』
『なるほどな。それで、掻き傷ができたというのだな。そんなこともあることだから、それも本当にとれる。だけど、お前よう考えてみるがいいぞ。普通の女というものは気の弱い人間だぜ。鬼神のお松というような毒婦だとか、乃木大将の夫人などという女丈夫なら、そら一突きで見事に死ぬかも知れん、が、あの女のような身体の弱い女に、そんなことができるかできんか、誰が考えても分かることじゃないか』
こういって来ると、相手の若者は、返事に窮したように、黙ってしまったのでした。僕は、もう一息だと思いました。
『何も、こんなことは、別にお前にきかなくても、初めからちゃんと分かっていることなんだ。掛りの医者を連れて来ているのだから、大抵のことは、お前にきかなくても分かってるのだ。が、お前が本当のことをいう男であるか、お前に何か取りえがあるかどうかと思って、きいているのだぞ』
こういい詰めると、若者は苦しそうに、身を悶えていましたが、
『ああお役人さま。私は死にたいのです。どうぞ、私を殺して下さい!』
彼は悲鳴のように叫ぶと、切なそうに、啜《すす》り泣きを始めていました。
僕は若者を叱りつけるようにいいました。
『そんな気の弱いことでどうする。今が、お前の一生の中で、いちばん大事なときじゃないか。今までの間違っていたことを改めて、生れ変った人間として立派にやっていく、大事な潮時じゃないか、お前が、やったことが悪いとしたならば、死んだ人に対しても、社会に対しても、申しわけとして、相当な勤めを、立派に果して、生れ変って来るときじゃないか。こんな大切なときにウソを吐くようじゃ、お前はもう何の取りえもない、男子のなかの屑じゃないか。さあ、死にたいなどと、そんな気の弱いことをいわないで、潔く本当のことをいったらどうだ。短刀の柄の端を、少し持ち添えてやったとか、一緒に転ぶときに、少し押してやったとか。本当のことをいってみい!』
『夢中で、はっきりとは覚えていませんが、一緒に倒れるときに、私の手が喉のところへ行ったかも知れません』
若者は、とうとう本当のことを、喋《しゃべ》り始めたのです。僕の面に、得意な微笑が浮ぶのをどうすることもできませんでした。
『なるほどな、が、お前も自分でやったことが分からんはずはないだろう、いや、お前はよう分かったつもりでいっているのだろうが、普通に考えると、どうもよく分からん。お前の肚《はら》になってみれば、よく分かるが、普通に分かるようにいってみんか。が、嘘をいえというのじゃないぞ』
若者は、しばらく無言でしたが、ようやく決心したように、
『よう考えてみると、あれが自分で突き刺して、非常に苦しがっていたものですから、あれの上から、のっかかって、短刀の柄の残っているところを、持ってやりました。一緒にきゅ
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