癖にいっていながら、勤めの身として、それが果し得ないのを、口惜しがっていたこと。男は、十月の初めから通い始めて、その日が六、七回目であったこと、心中は午前の七時頃に行われ、家人たちはまだ寝入っていたので、三十分ぐらい経って、お主婦がやっと、男の呻き声を聞きつけたこと、お主婦が駆け上ったときは、女の方はもうまったく息が絶えてしまっていたこと、男が持っていた短刀をお主婦がもぎ取ったこと、短刀を使う前に二人は揮発油を飲んだが、死に切れなかったこと。
僕は、そうした前後の事実をきいた後、尋問にかかったのでした。
僕が、尋問を始めようとすると、警部と巡査とは、その男を床の上に、座らせようとするのです。男は首を挙げようとして、喉の傷を痛めたとみえ、歯を食いしばるようにして、じっと、その苦痛を忍びながら起きようとするのです。
『苦しければ、そのままでいいよ』と、僕が注意をしますると、警部はそれを遮るように、
『なに、大丈夫ですとも。気管を切っているだけですから、命には別条ありません』といいながら、今度はその若者を叱るように、
『さあ! しゃんとして、気を確かにするんだぞ! こんな傷で、死ぬこと
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