にでも吹いたように、血が一面に吹きかかっているのでした。
まだ、そうした場所に馴れなかった僕は、一目見ると、その悽惨な情景から、ぞっと水を浴びるような感じを受けましたが、立会いの警部や書記などの手前、努めて冷静を装《よそお》いながら、まず女の傷口を見ました。見事に頸動脈を切ったとみえ、身体中の血潮がことごとくその傷口から迸《ほとばし》ったように、胸から膝へかけて、汚れ切ったネルの寝衣をべとべとに浸した上、畳の上から廊下にかけ、一面に流れかかっているのでした。が、傷口を見ているときに、もっと僕の心を打つものは、その荒み果てた顔でした。もう確かに三十近い細面の顔ですが、その土のようにかさかさした青い皮膚や、目尻の赤く爛れた目などを見ていると、顔という気はどうしても起らないのです。人間だという気さえ起らないのです。ただ、名状しがたい浅ましさだけを、感じたのです。
死にそこなった男の方は、別室に移されていて、医者の手当を受けていたのです。僕が臨検した主な目的は、相手の男を尋問して、無理心中ではなかったか、また、たとえ合意の心中であったにしろ、男の方に自殺|幇助《ほうじょ》の事実がなかった
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