われて来たのです。前借といえば、きっと三百円か五百円かの端金《はしたがね》に違いない。そうした金のために、十年の間、心も身体も、めちゃくちゃに嘖《さいな》まれた彼女が、他の手段では、脱し切れない境地を、死をもって脱しようとすることは、もっとも至極のことのように思われたのです。現代の売淫制度の罪悪は、売淫そのものにあるというよりも、こうした世界にまでも、資本主義の毒が漲《みなぎ》っていて、売淫者自身の血や膏《あぶら》が、楼主といったものを、肥しているということです。貧乏な人たちの子女が、わずかな金のために、身を縛られて、楼主といったような連中の餌食になって骨まで舐《しゃぶ》られていることです。そう考えて来ると、そうした犠牲者が、そのどうにもならない境地を、死をもって脱するのは、彼らが、最後の反抗であり唯一の逃路であるように思われて来たのです。
こうした浅ましい身体で、こうしたみじめな服装をして、浅ましい勤めをしているよりも、一思いに自殺する方が、この女に、どれだけ幸福であるかわからないと思ったのです。
そのときに、僕はこの女の自殺を手伝ってやったあの若者のことを考えたのです。この女は、明らかに死を望んでいる、そして死ぬ方が、何よりの解脱である。この女が、自殺しようとしてもがいているときに、ちょっと短刀を持ち添えてやったことが、なぜ犯罪を構成するのだろう。現代の社会のいちばん不当な間隙に、身を挟まれて苦しんでいる彼女が死を考えることに何の無理があるのだろう。また彼女が死んだからといって、何人が損をするというのだろう。楼主が損をするというのか。否、彼は彼女の血と膏とで、もう十分舌鼓を打った後ではないか。我々が、彼女の死を遮《さえぎ》るべき何の口実ももっていないのではないか。またたとえ、彼女の死を遮り止めたところで、彼女を救ってやるいかなる方法があるだろう。それだのに、彼女が死を企てたときに、ちょっとその手伝いをしたあの若者が、何故に罰せられなければならないのだろう。
そのときに、僕はふと、さっき尋問の手段として、若者にいいきかせた自分の言葉を思い出したのです。
『……女が可哀そうじゃないかね。どうせ二人で死んで行くのだもの。女が苦しんでいれば、お前も手をとって力を添えてやるのが人情じゃないか。それが、人間として美しいことじゃないかね』
自分が、手段のためにいったこうした言葉が、力強く僕の胸に跳ね返ってきたのです。あの若者のような場合に、あの若者のような態度に出ることは、何人からも肯定さるべき、自然な人情ではないか。それが、人間として美しいことではないか。それだのに、自分自身死にそこなって苦しがっている彼を、法律は追及して、罰しなければならないのだろうか。
そんなことを、考えていると、僕はさっき、傷に悩んでいる青年を脅《おど》したり賺《すか》したりして問い落して得意になっていた自分の態度が、さもしいように考えられて来たのです、僕の職務的良心が、ともすればぐらぐらに崩れそうになっていたのです。
出張したのは二時頃でしたが、すべての手続きが片づいた頃には、日がとっぷりと暮れていました。僕らは、引き上げようとして、俥が来るのを待っていたときです。臨検中は、私人が二階へ上るのを、一切禁じてあったのですが、もうすべてが終ったので、家人の上るのを許したのです。すると、待ち構えていたようにいちばんに上って来たのは、さっき見かけたこの家のお主婦《かみ》なのです。
僕の顔を見ると、平蜘蛛のように、お辞儀をしながら、そのくせ、額ごしに、冷たい目でじろじろ見ていたかと思うと、いいにくそうに、
『旦那はん。あの指輪《ゆびはめ》、取っても大事おまへんか』と、こういうのです。
『指輪! 指輪が、どうしたのだ』
お主婦は、ちょっと追従笑いをしていましたが、
『へえ。あの子供がはめておりますんで』
僕はそうきいたときに、妙な悪感を感ぜずにはいられなかったのです。
『じゃ、あの死体の指にはいっている指輪を欲しいというのだな』
『へえ! さよで』
僕は、頭から怒鳴りつけてやりたいと思ったのです。が、しかし、検事としての理性が僕の感情を抑えたのです。死体から、指輪を剥ぎ取るということ、それは普通な人情からいえば、どんな債権債務の関係があるにしたところで人間業ではないような恐ろしいことです。けれども、法律的にいえば、それは単に物の位置を移すということに過ぎないのです。
『よろしい』
僕は、そう苦《にが》り切って答えるほかはなかったのです。お主婦は、一人では怖いからといって、刑事に付いてもらって、死体の置いてある部屋の方へ行きました。
お主婦の姿を見送った僕の心は、憤懣とも悲しみとも、憂愁ともつかない、妙な重くるしい、そのくせ張り裂けるような感情で、
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