いっぱいになっていたのです。
 普通の人間が死んだ場合は、たとえ息は絶えていても、あたかも生あるもののごとくに、生前以上に尊敬され、待遇されるのに、彼女は――生前もがきにもがいた彼女は、嘖《さいな》まれた上にも嘖まれた彼女は――息が絶えると同時に、物自体のように取り扱われ、身に付けていた最後の粉飾物を、生前彼女を苦しめ抜いた楼主に奪われなければならぬかと思うと、彼女の薄命に対する同情の涙が、僕の目の中に汪然と湧いて来るのを、どうすることもできなかったのです。
 お主婦《かみ》は、やがて指輪を抜いてきました。見ると、それは高々八、九円するかしないかの、十四金ぐらいの蒲鉾《かまぼこ》形の指輪なのです。僕はそのときむらむらとして、こんなことをいったのです。
『お前、その指輪を、どうするのだ』
 お主婦は、おどおどしながら、
『あの子供に、借金が仰山《ぎょうさん》ありますけに、これでも売って、足しにしようと思うているのです』
『そうか。じゃ、誰かに売るんだな。売るのなら俺に売ってくれんか。何程ぐらいするんだ。十円なら安くないだろう』
『へえへえ。結構どす。けど、何やってこんなものをお買いになるのどす』
『まあ! いい』
 そういって、僕はその指輪を買ったのです。
 そのとき、ちょうど俥がやって来たのです。僕は、立ち上ると、お主婦が、不思議そうに見ているのもかまわず、錦木の部屋へ入って行ったのです。そしてお主婦から買い取った指輪を、元の瘠せ細った指に入れてやったのです。もう、十一月の半ばであるのに、死体の上に、あせためりんす友禅の単衣《ひとえ》しか掛けてないのが、何だか薄ら寒そうに見えたのです。が、顔だけはまことに、眠るがごとく目を閉じていたのが、そのときの僕には、何よりの心やりでした。
 僕は、僕の後から、僕が何をするのだろうと、おずおず見に来たお主婦に叱りつけるようにいったのです。
『いいかい。この指輪は、錦木のものじゃない。俺のものだぞ。もし今度この指輪を取ると、ひどい目にあうのだぞ』
 僕は、お主婦《かみ》が何か畏《かしこま》っていっているのを聞き流して、梯子段を降りたのです。
 僕は、俥に乗ってから、立会いの警部や刑事の手前、自分の最後の行動が、突飛であったことを後悔したのです。が、後で悔いはしたものの、あの場合の僕は、ああした行動をするような、不思議な興奮に囚《と
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